2008年9月1日(月) 
 『武士道』-仁・義・礼・智・信-その2
ー武士道は知識を重んじるものではない、重んじるのは行動である。ー

 今日は、弊社の創立記念日(11年目)にあたり、午後から恩赦というのか(言うかい、そんな事)、オヤスミですね。

 さて、一昨日のブログで紹介した、『武士道』の<その2>として、感想を述べてみたいと思う。この『武士道』は二十一世紀の初頭、あまねく世界に紹介され、「ブシドー」なる言葉を知らしめた最初の本だったのですね。

 日本人の道徳律は儒教に負うところが大であるけれど、道徳の神髄、五常の徳「仁・義・礼・智・信」に加えて、更に「忠・孝・悌」を合わせた8つの徳を”人の倫(みち)”として説いてきたんだね。

 NHK新八犬伝で僕の脳味噌にメロディーと共に刷り込まれている、♪じんぎれいち、ちゅうしん、こうてい♪だね。

 簡潔に言えば、
思いやり
正義の心
礼儀・礼節
叡智・工夫
信用・信頼
いつわりのない心
父母を大事にすること
年長者に従順なこと

 具体的に言うと、「正直であれ」、「嘘をつくな」、「卑怯ことをするな」、「約束を守れ」、「弱いものいじめをするな」、「親孝行をしろ」、「兄弟仲良く」といったもので、これらの想いを「良心」といい、僕たちはこれらのモラルを犯すと、『良心の呵責』に襲われる、ってことになる。(ならない人もそりゃ、いるだろうね、今の世の中)
 しかし、当時のアメリカ大統領ルーズヴェルトさえ本書が唸らせたのは実にもっともだと感じるね。

 新渡戸稲造著の『武士道』を一読いただければ、大変わかるのだけれど、彼は博学で、ただ単純に日本の伝統に則った700年間に熟成され発展を遂げ精練されてきた武士道の慣習、思想を紹介しているだけじゃないのだね、ほんとに、これ哲学的論文ですよ。

 キリスト教、儒教をはじめとする宗教観、哲学、孔子の「論語」、孟子の教え、ソクラテス、アリストテレス(ギリシャの哲学者)、モンテスキュー(フランスの哲学者・思想家)、ヘーゲル(独の哲学者)、ビスマルク(独の政治家)、カーライル(スコットランドの協会教育者)、シェークスピア、ギソー(フランスの歴史家)、スペンサー(英国の哲学者・社会学者・倫理学者)、織田信長、西郷隆盛、豊臣秀吉、ヘロトドス(ギリシャの歴史家、歴史学の父)、マホメット、アフガディオ・ハーン(小泉八雲)、まだまだ出てくるけれど・・・・・

 それらを総動員しつつ、彼らの書物を紐解きながら、引き合いに出し、一方的な説明にならず、世界的歴史的事実史から客観的な総合的な論理的なアプローチで持論を展開し、公平な立場で論説している点に非常に驚かされるし、この本が100年も前(1899発刊)に日本人の手によって英語で執筆されたことは驚嘆するね。

 今回もこの分じゃ、まだまだ書き足りないな・・・
 じゃ、<その3>にどこかで話をまたまた譲るとしてね、

 「武士道はいまなお、私たちの心の中にあって、力と美を兼ね備えてた生きる対象である」と新渡戸稲造氏は冒頭で言い切っている。

 文末では彼自身がキリスト教徒でありながら、ばっさり、キリスト教への不満、改善すべき点まで言及してるのがすごいね。

 それと、エドガー・ケイシーへも通ずるところがあるのだけれど、それは「愛」の根源、自分の中にそれぞれ神が宿っている(武士道では話が発展し過ぎちゃうけれど)ニュアンスを感じましたね。究極はすべての根本は同じだってことが何気に察知出来たし。(これは僕の超個人的に感ずること)

 それで、武士道の源がどこにあるのか、に対し彼は、キリスト教の「原罪」の教義は武士道にはないけれど、逆に神社に詣でる者が奥殿に掲げられている一枚の鏡について、「鏡は人間の心を表している。心が完全に平静で澄んでいれば、そこに「神」の姿を見ることができる。それゆえに人は社殿の前に立って参拝するとき、己自信の姿を鏡の中に見るのである。」と古代ギリシャのデルフォイの神託、「汝自身を知れ」に通ずると結んでいるのだよ。

 すごいじゃないか・・・・

 これ、まだ続くよ、期待してて。(全くおもしろくないぞ、なんて言うなよ)
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