日本陸海軍機大百科、陸上攻撃機『天山』一二型 2011
10/31
月曜日






シリーズ第五五弾は、不利な戦況下で苦戦を強いられた、海軍の大型、大重量艦攻『天山』を紹介しましょう。

◆「天山」の開発秘話としては、発動機の選択、要求仕様から設計、制式制定までは、2011.8.11「艦上攻撃機『天山』十二型」に紹介したとおりである。

 昭和14(1939)年12月の試作発注から、3年8ヶ月という、当時としては異例とも言える長期の開発期間を経て、海軍期待の大形、大重量艦攻機『天山』はようやく制式兵器採用になった。しかし、最初の装備品である陸上基地航空隊の五三一空所属機が、ソロモン戦線にて実践デビューした昭和18(1943)年12月頃には本機を取り巻く情勢は極めて厳しくなっていた。結局、この就役の遅れが天山の実績に大きく影響し、その高い性能に相応しいものを残せなかった主要因になった。

■ソロモン戦域で実践デビュー
 天山の実践デビューはブーケンビル島沖海戦/航空機であった。実践初参加が既に夜間出撃だったことは、当時の戦況が日本側にとっていかに不利になっていたかの証と言える。防御態勢の強固なアメリカ海軍艦船群に対する昼間攻撃は、もはや不可能になていた。

■五五一空天山隊の無念
 まあ、惨憺たる状況であった。天山を2番目に配備された五五一空は、昭和18(1943)年末に蘭印(現インドネシア)に進出、主に周辺海域の哨戒任務に従事したが、しかし翌19(1944)年2月中旬には、中部太平洋のトラック島に移動し、予想されるアメリカ海軍機動部隊の来襲に備えることになったのだが・・・・

■マリアナ沖海域での惨敗
 大型、大重量機故に、天山を一定数運用出来る空母が「翔鶴」、「瑞鶴」の2隻しかなかったこともあり、空母部隊への配備が本格化したのは、昭和19(1944)年に入ってからであった。同3月に、ようやく竣工した最新鋭空母「大鵬(たいほう)」を含め、6月19日に生起した最後の機動部隊決戦、マリアナ沖海戦時には、これら3隻に計54機、ほかの中、小型空母に少数ずつ計27機、併せて81機の天山が搭載された。
 しかし、その途中でグラマンF6Fの待ち伏せにあって大部分撃墜され、かろうじてこれを免れ目標上空に達した少数の機も、鉄壁の対空砲火網に捕捉されて撃ち落とされた。
 翌20年の追討戦で、残存の天山8機も失われ、結局、2日間にわたる戦いが終わったとき、日本海軍は「大鵬」を含む3隻の空母と搭載機389機(全体の86.4%)を失い、再起不能とも言える痛手を被っていた。天山隊の被害は目を覆うばかりで、当初の81機のうち、残ったのは6機のみで文字通り壊滅だった。
 すでにこの頃、日本海軍の航空機が尋常な攻撃手段でアメリカ海軍艦船群に対して致命傷に至るほどの損害を与えるのは、ほとんど不可能になっていた。

◆台湾、比島での戦い
 マリアナ諸島を制圧したアメリカ軍の次なる攻撃目標は、南方資源地帯と日本本土を結ぶ中継地の要衝、比島(フィリピン)であった。この比島を攻略する前の”地ならし”として、日本本土から同島へ移動する航空部隊の重要な中継地、台湾を叩くことになった。 もちろん、それを担当するのはアメリカ海軍機動部隊の艦載機だった。
 その意図を察知し、台湾東方会場に接近してきたアメリカ海軍機動部隊に対し、陸上基地航空隊の兵力をもって攻撃を試みた結果、生起したのが台湾沖航空戦だった。
 日本海軍は、いくばくかでも敵の防空態勢が緩むであろう、夜間、もしくは黎明(れいめい:夜明け、明け方)薄暮(はくぼ:もうすぐ日が暮れかけ)、さらには台風などの悪天候を意図的に利用して攻撃することにし、そのための訓練を積んだ特別部隊を充てることにした。それが、昭和19(1944)年夏に編成された「T」部隊だった。TとはTyphoon(台風)の頭文字ををとったものと言われている。
 一式陸攻、銀河、陸軍の四式重爆「飛龍」による雷撃隊などとともに、天山隊もT部隊の中に組み入れられた。これが、六〇一空隷下の攻撃第二六二飛行隊だった。
 攻二六二は、昭和19(1944)年10月12日夕刻、陸軍雷撃隊の飛行第九十八戦隊の四式重爆21機とともに、天山23機で沖縄本島から出撃した。そして、夜10時半前頃に敵艦船群を発見して魚雷攻撃を行った。
 しかし、暗闇の中では照準も困難を極め、戦果らしいものを上げられないまま、対空砲火、夜間戦闘機の攻撃により14機が未帰還になった。その後、T部隊以外の天山隊が、14日(計56機)、15日(12機)、16日(18機)と沖縄、台湾の基地から出撃したが、多くが未帰還機となり、ほとんど戦果を得られずに終わった。

■惨敗した比島攻防戦
 10月19日、「倢一号作戦」が発動され、凄絶な比島攻防戦が始まった。ルソン島に集結した海軍の陸上基地航空隊は、24日から「航空総攻撃」の名のもと、比島東方海上のアメリカ海軍機動部隊に対し、大規模な昼間攻撃を実施した。
 天山隊としては、七六一空、五五三空、六五三空などの隷下飛行隊が参加したが、悪天候に妨げられるなどして戦果はほとんど上がらなかった。
 一方、マリアナ沖海戦に大敗した空母隊も、現存4隻と搭載機計116機(うち天山は25機)をもって、囮役の任務を帯び、比島沖に進出した。そして、アメリカ海軍の機動部隊を北方に引き寄せる役目を果たしたのだが、その艦載機群の波状攻撃を受け、空母4隻全てが撃沈され、壊滅し果てた。

■最後は特攻機として
 昭和20(1945)年2月には、戦いの部隊は本土周辺へと迫り、アメリカ海軍機動部隊が硫黄島近海まで接近してきた。2月19日、千葉県香取基地に展開していた六〇一空隷下の各飛行隊をもって、神風特攻「第二御盾特別攻撃隊」が編成(零戦9機、彗星11機、天山8機)された。そして、21日、五次に分けられた同隊は、八丈島を中継して出撃、天山隊は四次が爆装の4機、五次が雷装4機という振り分けだった。この攻撃で、アメリカ軍側は小型の護衛空母1隻が撃沈され、ほかに輸送艦など3隻が損傷した。この戦果のうち、空母撃沈に貢献したのが、天山隊・第五次の1機突入として推測されている。
 3月末から、沖縄をめぐる攻防戦に他の海軍機と同様、神風特攻隊として出撃していった。しかし、日本陸海軍の総力を挙げた抵抗も空しく、6月22日に沖縄は陥落してしまった。

■製造機数
 中島の半田製作所で量産が続いていたが、一一、一二型合わせて生産数1,266機に達した。


 次回は、海軍 二式水上戦闘機『二式水戦』を紹介します。(2011/10/31 23:55)


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