日本陸海軍機大百科、九三式中間練習機(2)[K5Y1] 2012
8/24
金曜日



日本陸海軍機大百科、第73弾は、太平洋戦争中期以降の搭乗員大量養成にも貢献した日本海軍の傑作中連、『九三式中間練習機』を紹介しましょう。
第36弾でも、「九三式中間練習機」を紹介していますので、そちらと併せてご覧下さい。

昭和9(1934)年1月の制式兵器採用以来、太平洋戦争終結の約5ヶ月前まで、およそ11年間もの長期にわたり、海軍航空機搭乗員養成のための中心機材として君臨したのが、九三式中連であった。今回は、九三式中連による訓令の階梯、水上操縦訓練用の浮舟(フロート)付き九三式中連[K5Y2}も含めた各練習航空隊への配備状況などについて述べる。


■飛行練習生と九三式中連

海軍航空兵力の中核を担った下士官搭乗員。その登竜門である予科練習生を卒業し、いよいよ憧れの”飛行機乗り”になるための実施教習ともいえる飛行練習生(以下、飛練と略記)になれた者たちが、日々の訓練に使ったのが九三式中連であった。

最初は、後席に教員が搭乗しての離着陸訓練から始まる。海軍機は、航空母艦での離着陸が基本とされたので、左右の主車輪と尾輪を同時に接地させる、”三点着陸”をみっちりと叩き込まれた。

九三式中連による三点着陸は、最終アプローチに入り、高度が7mになったら操縦桿を手前に引いて、期待を三点姿勢にするのが基本であった。

この地上7mという感覚を身に付けるために、地上のシミュレーターを使い、ウインチで吊り上げて、繰り返し落下させる訓練が行われた。

飛行教育の”総本山”ともいえた、茨城県の霞ヶ浦航空隊における昭和17(1942)年~18(1943)年頃の訓練システムによれば、教員1人の受け持ちは練習生4名で、午前中は座学、午後に実施訓練というスケジュールだった。

一人あたり、1回の飛行訓練時間は約20分。これを夕方まで繰り返し行う。操縦の素質が良い者は、およそ5時間余りの同乗訓練で離着陸の要領をマスターした。

最低でも10時間以内にマスターしないと、操縦員として失格と判定され、偵察員などに転科されてしまった。

なお、飛行教程に入る前には陸上機、水蒸機の適性検査が行われ、水蒸機に選別された者は、同じ九三式中連の水蒸機型を使用しての教育を受けるため、霞ヶ浦湖畔を既知とする、鹿島海軍航空隊に転入した。


■九三式中連教程を終えると・・・・

九三式中連を使った5ヵ月間、約70時間の基礎訓練を修了すると、次の階梯に進み、旧式化した実用機を用いての高等課目をマスターするための訓練に入る。

戦闘機操縦員コースの者であれば、固定脚の九六式艦戦による訓練へと進む。ここで宙返りや”ひねり込み”など、空中戦の際に用いるアクロバティックな特殊飛行を本格的に訓練する。

この旧式実用機による高等訓練を修了してはじめて一人前の操縦員として認められ、実施(実戦)部隊に配備される。もっとも、すぐに実戦出撃が許されるわけではなく、その部隊の装備機により、さらに実戦向きの訓練を一定時間受けなければならなかった。

零戦を装備した陸上基地部隊を例にすれば、部隊装備機による訓練は約130時間とされており、新米操縦員の技量を一定レベルに引き上げるのに、相応の時間はかけていたことがわかる。


■九三式中連の存在価値

もともと日本海軍が艦載水上偵察機の存在を極めて重要視していたこともあって、少なくとも太平洋戦争中期までは、水上機操縦員の養成も、陸上機のそれと同等の規模で行われてきた。

しかし、太平洋戦争は、日本海軍が長年にわたって戦略構想の根幹に据えてきた、主力艦による砲撃戦で勝敗を決する形ではなく、航空戦のいかんによってそれが決するという予想外の展開となった。

その影響により、水上操縦員の養成部門は縮小の方向に推移し、昭和19(1944)年に入ると、飛練の水上教育コースは次々に廃止され、大半の者が陸上機コースへと転科した。

九三式中連の精算自体は太平洋戦争敗戦の日まで継続したのだが、このような状況に、水中練型の生産は少なくとも昭和19(1944)年後半には打ち切られたと思われる。


■九三式中連の配備状況

昭和15(1940)年に予科練習生制度が発足して暫くの間は、その飛練教育は、神奈川県・横須賀に所在した横須賀海軍航空隊が担当した。

昭和19(1944)年1月に制式兵器採用された九三式中連が、まずこの横須賀航空隊に配備されたのは当然であった。

しかし、年を追って採用人数が増加していき、ほかの海軍諸施設、機関が集中する横須賀基地は手狭となり、昭和14(1939)年2月以降、予科練、および飛練の教育は、茨城県の霞ヶ浦湖畔に位置した霞ヶ浦海軍航空隊に移管された。

そして、翌昭和15(1940)年11月には、霞ヶ浦空の予科練習部が独立、隣接する土浦海軍航空隊となったため、霞ヶ浦空は、飛練教育に専任することになり、九三式中連配備のメッカとなった。

太平洋戦争開戦時の陸上練習機装備定数は164機(大半が九三式中連)だったが、5ヵ月後の昭和17(1942)年4月には288機、ピーク時の昭和19(1944)年4月には、300機まで増加した。


■戦争諸戦期の北浦空と大津空

土浦空の予科練教育を修了し、水上機の飛練教程に進んだ者の操縦訓練は、同じく霞ヶ浦湖畔に基地を持ち、昭和13(1938)年12月に開隊した鹿島海軍航空隊が担当した。

当初は九三式水中連のほか旧式の九〇式水練なども保有していたが、太平小戦争期には、水練装備定数の96機のほとんどが九三式水中練で占められるようになった。

その太平洋戦争開戦を控えた昭和16(1941)年10月、水上機搭乗員養成の拡充を予測し、霞ヶ浦の東隣に位置する北浦湖畔、および滋賀県の琵琶湖畔の大津に、それぞれ鹿島空の北浦分遺隊と大津分遺隊が置かれた。

両分遺隊は、開隊5ヵ月後の昭和17(1942)年4月1日付けで独立し、それぞれ北浦海軍航空隊、大津海軍航空隊となり、引き続き水上機搭乗員の操縦教育を担当した。

水練装備定数は、北浦空が96機、大津空が48機で、そのほとんどが九三式中連が占めた。しかし、太平洋戦争中期以降は、水上機そのものの需要が減少したこともあって、両航空隊における飛練教育も徐々に縮小していった。


■戦争後期の練習航空隊の大拡充

太平洋戦争緒戦期において、航空兵力の重要性を悟った日本海軍は、ミッドウェー海戦での惨敗を契機に、従来の艦船建造を最優先とする軍備計画を大転換して、航空戦備の拡充を最優先するように改めた。

この方針に沿って、「改⑤計画」が6月30日付けで策定され、実戦部隊と同保有機数を一気に倍増すると共に、その搭乗員養成を担当する練習航空隊も、従来の十数個から計45個、保有機数4,900機余にまで大拡充されることになった。

飛行予科練習生の採用人数は、日中戦争期を通して年々増加されてはいた。しかし、改⑤計画の策定後は、前年度の数倍という途方もない伸び率となり、昭和19(1944)年には、甲種が76,500名、乙種が30,160名、丙種が106,660名の合計213,320名という膨大な人数となった。


■比島(現フィリピン)や蘭印でも練習航空隊を開隊

成り行き上、新設される練習航空隊に配備すべき九三式中連の需要も飛躍的に伸び、日本飛行機、日立航空機をメインにした生産工場は、フル稼働で増産に励んだ。

改⑤計画立案以降に新設された練習航空隊で目立つのは、それまで日本本土内に限定されていた配備先が、台湾や朝鮮、さらには中国大陸沿岸部、果ては比島(現フィリピン)、蘭印(インドネシア)にまで及んだことであった。

昭和17(1942)年11月に開隊した台湾の高雄海軍航空隊が、その嚆矢となり、翌昭和18(1943)年」4月には、中国大陸南部沿岸の海南(ハイナン)島、黄流に黄流海軍航空隊、翌昭和19(1944)年3月には、比島(現フィリピン)のマニラで第三一海軍航空隊(二代目)が、それぞれ開隊した。

フィリピンやインドネシアにまで練習航空隊を置いたのは、戦争末期には、日本本土で燃料不足が深刻化していたためでもあった。既にその前から、九三式中連は純正のガソリンではなく、アルコールを混入した代用燃料を使用するようになっていた。


■九三式中連の末期

昭和20(1945)年3月1日、日本海軍は太平洋戦争の現状に鑑み、全ての練習航空隊における飛行教育業務を廃止した。

アメリカ軍に抗すべき手段が、事実上体当たり自爆攻撃、すなわち「神風特攻隊」による決死の戦術以外になくなったためでもあった。もはや、通常の飛行訓練は不要。必要なのは、爆弾もろとも敵艦船に降下突入する技量のみとなっていた。

そして夥しい数の予科練生の大半は、飛・練に進む道を閉ざされ、特別攻撃機「桜花(おうか)」、「神龍(しんりゅう)」に乗るためのグライダー訓練、水中特攻艇「こう龍」、人間魚雷と呼ばれた「回天」、体当たりモーター・ボード「震洋(しんよう)」、潜水夫特攻「伏龍(ふくりゅう)」、果ては上陸してくる敵戦車に突入して自爆する「土龍(もぐら)」などの要員に振り分けられていった。

そして、用済みとなった九三式中連自体も、250kg爆弾を懸吊した特攻機となり、最後の本土決戦に備えたまま、敗戦を迎えたのだった。




次回は、日本陸軍の『キ87試作近距離戦闘機』をご紹介します。


※サイト:日本陸海軍機大百科


(2012/08/23 6:35)



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