日本陸海軍機大百科、『一式陸上攻撃機』[G4M1](2) 2012
6/15
金曜日



日本陸海軍機大百科、第70弾は、太平洋戦争の厳しい現実に、構想を砕かれた日本海軍の『一式陸上攻撃機』を紹介します。

欧米列強国の双発攻(爆)撃機に対する概念を超越するほどの高性能を実現した一式陸攻は、太平洋戦争において、日本海軍陸上航空兵力の中核的打撃力として、大いに威力を発揮するはずだった。ところが、現実の戦況は日本海軍が想い描いた陸攻という機種そのものの運用状況と全く異なった形で推移したため、目算が外れて苦しい立場に追い込まれていった。本機の開発史については、以前の『一式陸上攻撃機一一型』を参照されたい。
今回は、そうした一式陸攻の、戦争前半期までの戦いを追ってみることとする。


■開戦僻劈頭の攻勢


太平洋戦争開戦に備え、日本海軍の陸上基地航空兵力は、台湾と仏印(現ベトナム、カンボジア)方面に、その主力を二分して配備していた。

そして、開戦と同時に台湾の部隊比島(現フィリピン)、仏印の部隊はマレー半島の攻略作戦支援のために、総力を挙げた戦いに突入したのだった。

台湾に展開していた部隊を束ねたのは、第二十一、および二十三航空戦隊で、その隷下に属した一式陸攻部隊は、鹿屋(かのや)航空隊派遣隊(計30機)、孝雄航空隊(同62機)の2隊だった。

両隊の計81機は、開戦当日の昭和16(1941)年12月8日午前、ようやく霧が晴れた台湾の各基地を発進し、零戦の援護の元、比島(現フィリピン)を目指した。

そして、フィリピン駐留のアメリカ陸軍航空隊の中枢基地である、クラーク、イバ両飛行場を爆撃して、在地航空機数10機を破壊、諸施設などにも大きな損害を与えることに成功した。


■マレー沖開戦での大殊勲

一方、仏印方面の部隊を束ねる第二十二航空戦隊に属する陸攻隊は、そのほとんどが九六式陸攻を装備しており、一式陸攻は、台湾の鹿屋航空隊から臨時に派遣された3個中隊系27機のみであった。

これら二十二航戦隷下の各隊に課せられていた任務は、マレー半島攻略作戦の最終目標であるシンガポールの攻略を支援するため、同地のイギリス極東群の航空兵力撃滅であった。

しかし、開戦翌月の12月9日、南シナ海を哨戒中の潜水艦が、イギリス海軍の戦艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス)を、マレー半島東方洋上で発見したという情報が入り、陸攻隊は、全力を挙げてこの2隻を攻撃することになった。


19日午前、仏印のツダウム基地にいた鹿屋空派遣隊の一式陸攻26機は、全機魚雷装備で、ほかの九六式陸攻部隊とともに発進した。

午前2時前に敵戦艦2隻を認め、超低空で接近し、それぞれ中隊ごとに目標を決めて雷撃した。その結果、プリンス・オブ・ウェールズに5本、命中させ、両艦撃沈に大きく貢献した。

このマレー沖開戦は、航行中の戦艦を航空機の雷・爆撃のみで撃沈した史上初の快挙と称えられ、陸攻という機種の存在感を全世界に知らしめたという点においても、大いに意義深い出来事だったと言えた。

しかし、陸攻の本分を示したといえる場面は、結局のところ、後にも先にも、このマレー沖開戦のみで、これ以降の陸攻隊はほとんど苦闘を強いられることとなった。


■戦慄の予兆


比島(現フィリピン)、マレー半島の攻略作戦が、予想した以上の順調さで進捗したこともあって、昭和17(1942)年に入ると、日本軍の進攻の矛先は、蘭印(現インドネシア)、さらにはソロモン諸島にまで及んでいった。

そのソロモン諸島方面では、1月下旬にニュープリテン島を占領した日本軍に対し、アメリカ海軍は、空母「レキシントン」を中心に、重巡洋艦2隻、駆逐艦7席から成る艦隊を同海域に派遣し、攻撃を加えようと図った。

このアメリカ艦隊を牽制するために、2月20日、ラバウル基地から、同地で新編成されたばかりの、第四航空隊に所属する一式陸攻17機が出撃した。本来ならば援護役として零戦が同行するはずなのだが、長距離進出のため、落下増槽の手配が間に合わず、いわば”裸の出撃”になったことが、一式陸攻隊に最悪の結果をもたらした。

すなわち、敵艦隊上空に達した一式陸攻編隊は、二手に分かれて空母を爆撃しようとしたのだが、レーダーで予め接近を把握して待ち構えていたグラマンF4F艦上戦闘機に襲われ、各機はなすすべもなく次々に撃墜されてしまったのだった。

結局、爆弾は一発も命中せず、帰投時に不時着した機も含めて計15機を失い、無事にラバウルまで帰れたのは2機のみという悲惨な結果に終わった。

この一件で、一式陸攻は、それまで表面化しなかった欠陥、すなわち性能優先のために犠牲にした防弾対策の不備により、敵戦闘機の攻撃には極めて脆いことを露呈した。

これは、たとえ零戦の掩護をうけたとしてもカバーしきれない問題であり、前途に大いなる不安を与えた。


■地獄のソロモン戦域


前述した四空の悲劇は、海軍航空上層部に少なからず動揺をもたらしたが、さりとて、早急に対策がとれるわけではなく、戦争も待ったなしで推移していくので、そのまま使い続けるしかなかった。

そのような一式陸攻の苦しい現状に、追い討ちをかけるような事態が訪れた。昭和17(1942)年8月7日、アメリカ軍による本格的対日反攻作戦ののろしともいえる、ソロモン諸島南端に位置するガダルカナル島に対する上陸作戦が決行されたことに端を発する、同諸島攻防戦の開始であった。

ラバウル基地には、このアメリカ軍を駆逐するため、日本海軍陸上基地航空隊が次々に派遣され、連日のようにガダルカナル島に進攻して鮮烈な航空戦を展開した。

一式陸攻部隊も、先の痛手を補充して戦力を回復していた当地駐留の四空は言うにおよばず、三沢空、木更津空、鹿屋空、高雄空、千歳空が次々とラバウル地区に派遣されて、激戦に加わった。

ガダルカナル島への進攻には、必ず零戦が掩護についた。しかし、同等には精強をもって知られた、アメリカ海軍兵隊のF4F戦闘機隊がローテーションで配備されていたこともあって、零戦隊も自身の空中戦で手一杯。一式陸攻の掩護に隙を生じる場合が多かった。

その結果、出撃の都度に一式陸攻は少なからぬ損害を出し、10月末まで3ヶ月間に、各隊合計100機以上と、700名以上におよぶ搭乗員が失われた。”死ぬまで帰れぬ、地獄のソロモン”と、生き残りの隊員が口走ったとおり、ソロモン戦域は、まさに陸攻隊の墓場と化した感があった。


■防弾対策を!! 悲痛な叫び

こうしたソロモン戦域における一式陸攻の惨状に、現場から何らかの防弾対策を!!という声が上がるのも当然であった。かといって、大幅な改修設計を施す余裕はなかった。海軍航空上層部は苦肉の策として、被弾に最も弱い主翼内インテグラル式燃料タンク部の下外鈑にゴム板を貼り付けるという姑息な手段で、僅かなりと防火、防漏の効果を持たせようとした。

しかし、デリケートな主翼断面形ラインを崩すゴム板貼り付けは、飛行性能低下をもたらすほか、期待したほどの防火、防漏効果もなく、全機を対象にした改修というレベルまでいかずに終わった。


■昼から夜へ

ガダルカナル島侵攻作戦を通し、一式陸攻の被弾に対する脆弱振りを身に染みて味わった海軍は、昭和17(1942)年11月に入ると、陸攻隊の運用を、敵戦闘機による迎撃の恐れが少ない、薄暮、黎明(れいめい)、あるいは夜間の活動にシフトする傾向を強めた。

しかし、こうした視力の効かない時間帯は陸攻隊自身の大規模な連携行動も不可能にし、一回の出撃機数はせいぜい数機が限界で、爆撃効果もそれなりに稀少となった。

昭和18(1943)年に入り、ソロモン航空戦が日に日に日本側に不利に傾いていった背景には、こうした陸攻隊の総体的な威力低下も少なからず影響していた。

零戦隊が奮闘して、いかに多くの敵機を撃墜しようと、敵方にダメージを与える手段であるはずの陸攻兵力がその高価を発揮できなくなれば、攻防戦の先行きは見えてしまう。

ソロモン航空戦における日本海軍航空打撃力の不振、それは、やがて太平洋戦争そのものの勝敗を決する、分水嶺になったと言えた。





※サイト:日本陸海軍機大百科


(2012/06/15 6:04)



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