日本陸海軍機大百科、陸上攻撃機『連山』[G5N1] 2012
4/23
月曜日



日シリーズ第66弾は、従来の日本海軍陸上攻撃機と一戦を画す、四発大型戦略的爆撃機、陸上攻撃機『連山』[G5N1]を紹介します。

日本海軍が戦略構想の根幹と考えていた、主力艦同士による艦隊決戦時の補助兵力に過ぎなかった陸上攻撃機は、現下の太平洋戦争が、航空戦力のいかんで勝敗が決する方向に推移したことにより、根本から開発指針変更を余儀なくされた。そして、同じ「陸攻」という機種名称を冠しながら、内容的には全く異なった、長距離戦略爆撃機に準じた構想に基づいて開発された四発大型機が「連山」であった。しかし、アメリカ陸軍のB-17やB-24に匹敵する四発大型機は、当時の日本の航空技術力では手に追いかねる代物で、太平洋戦争には到底間に合わず、試作段階で消える運命にあった。


■一三試大攻の開発


昭和13(1938)年2月、製造図面を先に入手するため、担当技師3名をダグラス社に派遣した中島は、5月には図面一式の引渡しを受け、さっそく、機体設計の検討に入った。<BR>
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海軍から、「一三試大型陸上攻撃機」[G5N1]の名称で正式な試作発注が出されたのは同年9月。要求されたスペックの大要は、最高速度240kt(444.5km/h)以上、航続力は巡航速度180kt(333.4km/h)に攻撃時に3,500浬(6,482km/h)以上、偵察時に4,500浬(8,344km/h)だった。攻撃時の兵装は爆弾2,000kg、または魚雷(800kg)2本とされた。<BR>
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前年9月に、九六式陸攻の後継機として三菱に試作発注された「中攻」の一二試陸上攻撃機(のちの一式陸攻)の要求スペックが、航続力は攻撃時に2,000浬(3,700km/h)以上、兵装は爆弾800kg、魚雷1本だったことに比較すれば、前述した一三試大攻の開発目的がはっきりわかる。<BR>
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因みに、一三試大攻と前後して、川西航空機に試作発注された一三試大型飛行艇(のちの二式飛行艇)の要求スペックも、一三試大攻とほとんどおなじであった。この事実から、海軍は陸上機と飛行艇の2種の”大攻”を得ようとしていたことが推測できる。


■旅客機から攻撃機に変身

DC-4Eの製造図面を入手した中島は、松村健一技師を主任に配し、構造、降着装置、操縦装置、動力擬装、射撃・爆撃兵装など、部門ごとに責任者を配して設計作業に着手した。むろん、民間向けの旅客機と陸上攻撃機では、内容的に全く異なり、参考にするとは言っても、胴体は独自設計のものに変えねばならぬし、射撃・爆撃兵装関係についても、原型にはないので、これらも全く新規に設計する必要があった。

従って、DC-4から一三試大攻に”転換”させるには、機体関係だけでも、上記した以外に以下の5つの重要変更ポイントが生じたのであった。


 ①主翼の分割組み立てを、6分割から7分割に変更
 ②内翼骨組みを変更し、各翼との接合部分も独自設計とする
 ③中央翼の胴体貫通部には、3本の主桁を通すのみとする
 ④主脚の脚柱を20cm延長する
 ⑤翼内燃料タンク容積を拡大する

なお、新設計の胴体は、下部の兵装室を下に張り出すようにし、後部は思い切って半分ほどの細い断面にして、無駄なスペース、重量増加を省いた。この兵装室が下方に張り出したため、主翼の取付位置は、DC-4Eの低翼位置ではなく、必然的に中翼位置になった点も大きな変化だった。

DC-4Eのエンジンは、プラット・アンド・ホイットニー社製「ツイン・ホーネット」(1,150~1,400hp)だったが、むろん、一三試大攻には、中島の自社製「誉(ほまれ)」一一型空冷星型服列14気筒(1,870hp)を予定した。


■難航した試作

未経験の大型四発機とあって、中島技術陣も試行錯誤する箇所が続出、一三試大攻の試作には3年も要し、昭和16(1941)年2月末にようやく1号機の完成にこぎつけた。

そして、4月8日に初飛行を果たすと、早速海軍に領収されて、テストを受けた。1号機と、続いて完成した2号機は、「誉」発動機の調達が間に合わず、応急的に三菱製の「火星」一二型(1,530hp)を搭載し、住友/ハミルトン系3翅プロペラを組み合わせていた。

予定した発動機に比べ、20%近くも低い出力に甘んじたので当然だが、試作1、2号機の飛行性能は、全般的に要求値を40%も下回る論外の値だった。

加えて、はじめての四発大型機ゆえの不具合箇所が多発して、実用性もきわめて低いことが問題となった。

それでも、海軍は本来の「誉」発動機を搭載するはずの、第3~6号機までの増加試作の完成に期待をかけ、中島に対し、不具合箇所の早期改修に努めるように銘じた。

すでに太平洋戦争も勃発して、半年以上が経過した昭和17(1942)年夏、3号機がようやく海軍に領収されて本格的なテストを受けた。発動機が「誉」に変わった(プロペラも同じ住友/ハミルトン系ながら4翅タイプに変更)ことで、3号機以降は一三試大型陸上攻撃機威と名称が変わり、記号も[G5N2]になった。


■「深山」の悲哀

しかし、海軍が期待した一三試大攻も、いくらか性能を回復したとはいえ、依然として要求値には届かず、不具合箇所の改修、とりわけ油圧系統のトラブルがいっこうに改善されなかった。

昭和16(1941)年7月、日本海軍機の名称付与基準が改定され、機種ごとに割り当てたジャンルの固有名称を冠することになった。陸上攻撃機には三嶽名が割り当てられ、 一三試大攻は「深山(しんさん)」、一三試大攻改は「心材改」に改められた。

それはともかくとして、性能が低く、実用面においても多くの問題を抱えている深山を、大攻として使うのは不可能に近く、海軍は昭和18(1943)年秋、ついに深山の改修とテストの中止を決定した。

完成した6機のうち、深山改の4機(3~6号機)は輸送機に転用されることになり、胴体内部に貨物収納スペースを設け、貨物の積み下ろし用扉を後方銃座部に追加するなどの改修を加えた。


■深山改輸送機として

そのうえで、名称も「深山改輸送機」[G5N2-L]と改め、千葉県の香取基地を本拠とする、第一〇二一海軍航空隊(通称”鳩舞台”)に配備された。

これら4機は、マリアナ諸島、比島、台湾方面などへの輸送任務にあたったが、事故と空襲により2機が失われ、マリアナ諸島がアメリカ軍に占領された後の昭和19(1944)年8月、戦局の悪化を理由に、深山改輸送機の運用中止が決定した。

結局、アメリカ航空技術に頼って、四発大型陸攻をものにしようとした日本海軍の目論みは、自国の技術的な裏づけが乏しかったが故に、当初から成功の芽はなかったといえる。


■大攻への再挑戦

一三試大攻の実用化がほとんど望み薄となった昭和18(1943)年はじめ、海軍は中島に対し、「実計」(実用機試製計画の略)番号N-40の名の元に、次期大型陸上攻撃機の試作を内示した。

そして、何度かの官民合同会議、分科研究会などを経て、計画要求書案が練り上げられた後、9月14日付けで、正式に試作発注が出された。すでに名称付与基準が改訂された後に、新たな大型陸攻には、一八試陸上攻撃機「試製連山」[G8N1]の固有名称が与えられていた。

試作名称には”大型”の文字は入っていないが、深山に続く四発陸攻であることに変わりはない。要求された性能も、高度8,000mにて最高速度320kt(592.6km/h)以上、同高度までの上昇時間20分以内、航続力は巡航速度200kt(379.4km/h)にて、攻撃正規状態が2、000浬(3,704km/h)、攻撃過荷情愛が3,500浬(6,482km)、爆弾類の搭載量は最大で4,000kgと、深山のそれとは比較にならない高いレベルだった。


■緊要な大型陸攻

ただし、連山が深山に比べて根本的に違ったのは、太平洋戦争の現実に鑑み、それまで陸攻にとっての攻撃目標の中心だった艦船がその対象から外れ、敵の航空基地を叩くことに焦点を絞っていた点であった。

これは、事前の検討会議で、昭和18(1943)年中に、日本が防御体制に移行するのは必至であり、来襲する敵機を迎撃できる高性能局地戦闘機の重点開発と、その敵機の発進基地を叩く遠距離爆撃機を早急に実用化すべき、という方針が固まりつつあったことを踏まえていた。

つまり、海軍の大型陸攻は、連山に至って、アメリカ陸軍のB-17、B-24、ひいてはB-29といった四発戦略爆撃機に準じたものに変化したと言えた。


■中島技術陣独力での開発

太平洋戦争中の非常時下ということもあり、連山の設計を外国技師に頼って行うのは不可能であったため、何が何でも中島技術陣独力で遂行せねばならなかった。

中島としては、深山は失敗したものの、そのことで多くの教訓を得ており、同機の試作着手当時から5年を経て、技術者もそれなりにノウハウを蓄積していたことが頼りであった。

設計チームの顔ぶれは、深山の関係者がほぼ主体となり、主任も松村健一技師が再任された。

前述した構想もさることながら、連山の開発が、深山のときと明確に異なるのは、戦時下における緊急開発という点にあった。失敗は絶対に許されず、一日でも早い完成が望まれた。従って、おのずと未経験の技術導入は控え、経験上、確実なものだけを適用しなければならなかった。

主任の松村技師は、チーム全員にこのことを周知徹底させるため、以下の基本9項目を定めて、厳格に遵守するよう命じた。

 ①機体構造、動力、そのほかの選定に当たっては、確実性の高い資料に基づくこと。
 ②事前の研究、調査、実験を綿密に行うこと。
 ③現時点での最高レベルを求め、将来の性能向上や擬装変更は考慮しないこと。
 ④重要計算は特に慎重を期し、計画重量を絶対にオーバーしないこと。
 ⑤燃料タンクの防火/防漏対策を徹底すること。
 ⑥排気タービンか吸気関連の擬装を優先すること。
 ⑦防御銃座の設計に万全を期し、不具合発生への備えも考慮すること。
 ⑧尾翼の面積をなるべく小さく抑えること。
 ⑨構造材料の種類を少なくし、寸度もなるべく小さくして生産性を高めること。


■発動機と排気タービン加給器

要求された連山の高性能を実現するには、最低でも2,000hpの出力を発揮できる発動機が不可欠であった。とはいえ、この当時の日本で実用化を果たせていた2,000hp級発動機は自社製の「誉」しかなく、松村技師以下の技術陣にとっても、選択肢は他にはなかった。

誉は、すでに当シリーズの「紫電改」や「彩雲」にも採用され、高出力のわりに軽量、コンパクトな設計が特徴の、まさに理想的と言える2,000hp級発動機だった。

しかし、その反面、無理な設計がたたって、戦時下の厳しい運用環境では故障、不調が頻発し、稼働率も極めて低い、”歓迎されざる”発動機という評価に甘んじなければならなくなっていた。

しかも、連山は高度8,000m付近で巡航飛行することを前提にしているため、B-17、B-24と同様に、排気タービン加給器の併用が不可欠であった。

だが、昭和18(1943)年9月という段階では、日本の排気タービン加給器開発はまだ試行錯誤のレベルにあって、実用化の目処は全く立っていないのが現状だった。

それでも、中島技術陣は、日立製の「九二型」排気タービン加給器を併用する「誉」二四ル型(離昇出力2,000hp、公称高度8,000mにて出力1,850hp)を連山の搭載発動機とすることに決定した。


■状況の変化

海軍側の一刻も早い実用化をという催促もあって、中島技術陣は休日返上で連山の設計に全力を注いだ。その結果、四発大型機としては異例の早さというべき、設計着手以来僅か1年10ヶ月後の昭和19(1944)年10月、試作1号機の初飛行にこぎつけることができた。同じ中島の陸軍単発戦闘機キ84(のちの四式戦「疾風」)でさえ、1年3ヶ月を要しており、連山の試作に関わった技術者がいかに奮闘したかがわかる。

しかし、彼らの努力とは裏腹に、現下の太平洋戦争は末期段階に入ってきており、日本海軍には連山のような四発大型機を量産し、かつ実戦配備するだけの猶予はもはやなくなっていた。




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