日本陸海軍機大百科、陸上哨戒機『東海』一一型[Q1W1] 2012
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日曜日



日本陸海軍、第65弾は、世界最初の対潜水艦哨戒機となった、日本陸軍の異色双発機『東海』一一型を紹介します。

海中を密かに航行して目標の艦船に近づき、突然に魚雷攻撃を仕掛けてくる潜水艦は、列強国海軍にとっては、お互いに大きな脅威だった。この脅威を排除すべき有効な手段のひとつとされたのが、航空機による監視、および攻撃であった。この対潜水艦哨戒任務に専念する機体の開発に最初に着手したのが日本海軍で、昭和17(1942)年10月に試作発注され、翌18(1943)年12月に1号機が完成した「東海」こそ、世界最初の対潜水艦哨戒専用機だった。しかし、その登場は遅きに失した感があり、太平洋戦争末期の厳しい状況では、期待されたほどの活躍はできなかった。


■日本海軍の対潜哨戒構想

航空機とともに、第一次世界大戦において兵器としての地位を確立した潜水艦は、イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリア、日本など、海軍の水上艦船兵力が国防の根幹を成すと考える国々にとっては、互いに大きな脅威と言えた。

この潜水艦の脅威を少しでも排除する手段のひとつとして、各列強国が有効策とみなしていたのが、航空機による監視、および攻撃、すなわち「対潜哨戒任務」だった。

航空機による対潜哨戒は、大きく分けて2種のパターンがある。
ひとつは、水上艦船自身が搭載するフロー付の水上偵察機、あるいは航空母艦が搭載する車輪付の艦上機によるもの。
もうひとつが陸上基地からの水上機、もしくは陸上機によるものだった。

日本海軍の場合も、この双方を用いての対潜哨戒を採ってきたのだが、もともとが水上主力艦同士の砲撃戦によって、一気に戦争の決着をつけるという、いわゆる”艦隊決戦”を至上の構想としてきただけに、地味な対潜哨戒任務を軽んじる傾向も無きにしも非ずだった。

従って、水上偵察機に対しては、対潜任務への航空母艦、陸上基地で運用する車輪付きの専用対潜哨戒機に類する機体は特に開発しなかった。専ら、艦上攻撃機、あるいは艦上爆撃機、さらには双発飛行艇などを対潜任務に兼用してきたというのが現実だった。


■専用対潜機開発の気運

しかし、昭和15(1940)年頃になると、それぞれの列強国海軍が装備する潜水艦の性能が一段と向上し、既存の各機種で兼用するといった間に合わせの対応では、その脅威に対して不十分という認識が高まった。要するに、対潜任務に特化した専用機を持つことが望ましいとされたのであった。

こうした背景もあって、日本海軍は、新型機の開発指針となる「航空機機種および性能標準」と題する文書の昭和15(1940)年度版にて、はじめて「哨戒機」の項目を設け、その実現を図ることとした。

哨戒機の定義は、陸上基地での運用を前提にする小型飛行艇の形態を持つ水陸両用機とされ、乗員は3名。その任務上、高速性能は必要ではなく、海上を低空にて長時間(8時間以上)安定して飛行でき、六番(60kg)八発以上、もしくは二五番(250kg)二発の対潜用爆弾を携行し、目標発見後、ただちに急降下爆撃を行うことができるもの、となっていた。


■陸上哨戒機の試作着手

もっとも、開発指針たる文書に項目が設けられたからといって、即、当該機種が試作発注されたわけではない。哨戒機も、そののちの情勢変化、とりわけ太平洋戦争開戦が現実のものとなったことなどにより、定義内容に修正が加えられた。そして、翌16(1941)年度の開発指針によると、哨戒機は陸上機一本に絞られることになった。

同年12月8日、海軍空母部隊によるハワイ・真珠湾攻撃を受けた太平洋戦争が勃発。当面の第一段階作戦は予想以上の順調さで推移し、日本は半年間の短期、かつ迅速な行動により南太平洋一帯の要地を占領することに成功した。

しかし、昭和17(1942)年後半以降、アメリカ軍の対日反抗作戦が本格化するにつれ、南方の資源地帯から日本本土に戦略物資を運ぶ輸送船を狙うアメリカ海軍潜水艦の跳梁が目立ち始めた。

こうした状況を憂えた日本海軍は、同年10月、九州の渡辺鉄工所(翌18(1943)年10月、改組して九州飛行機に社名変更)に対し、はじめての対潜任務専用機となる機体として、「一七試哨戒機」[QYW1]を試作発注する。


試作を受注した渡辺は、野尻康三技師を主務者に配して、ただちに設計作業に着手し、翌月~12月にかけて海軍側の木型(モックアップ)審査を受け、これをパスした後、昭和18(1943)年2月より試作1号機の製作に取りかかった。

初めて経験する機種にしては順調な作業進展ぶりだが、これも用途が極めて限定されており、設計の焦点が絞りやすかったことが幸いしたといえる。

とにかく、高性能を狙うのではなく、低空を長時間にわたり、安定して飛行ができることが何よりも優先されたので、機体はごくオーソドックスな全金属製中翼単葉小型双発機の形態を採った。発動機についても、すでに練習機などの機種に広く登用され、実績を残していた日立製「天風」三一型[GK2C](離昇出力600hp)を選択した。


■Ju88双発爆撃機を参考

構造設計はありきたりではあったが、哨戒機という性格上、搭乗室からの視界は最高クラスのものが求められた。そのため、野尻技師は、海軍がドイツ軍から研究用に一機だけ購入したユンカース社のJu88双発爆撃機のそれを参考に、当時の日本海軍機には見られないユニークな機首まわりにまとめた。

乗員3名はすべて機首先端部の乗員室に集中配備し、背の高い風防で覆ったうえ、前方のガラス窓は小面積の平面ガラスを多面体風にくみ上げることで、歪のない、かつ広い視界を得られるようにした。

従って、乗員室風防から後方の胴体には、銃座や観測窓などの余分な突起物が全くなく、あっけないほどすっきりしたものになった。これも、Ju88に準じた手法であった。


■独自のフラップ設計

低空を低速で長時間飛行するには、できるだけ大きな主翼面積にして揚力を確保したい。

しかし、敵潜水艦発見と同時に、すばやく身を翻して急降下爆撃を加えられるような機動性も持たねばならないということもあって、主翼は全幅16mで、外翼にのみテーパー※(注1)をつけた平面形のきわめてアスペクト比※(注2)が小さく、面積もやや小さい38.21㎡の値に設計した。

同じ系統の発動機を搭載し、機体サイズも似たような規模の陸軍一式双発高練が、全幅17.9m、面積40㎡のアスペクト比の大きい、縦長い平面形の主翼を持っていたのとは好対照であり、用途の違いによる差は歴然としていた。

野尻技師らにとって、設計上もっとも腐心したのは、この小アスペクト比の主翼後縁に付けたフラップだった。低空で急降下すると、すぐに海面が迫ってくるので、フラップ面積は大きく、かつ作動角も最大限にしたうえで、充分なる制動効果を発揮でき、なおかつ、機体の安定性を損なわないという、いわば、”万能フラップ”が求められたからだった。


■スロットを配したフラップ

技師陣は、試行錯誤を重ねつつ、最終的に弦長(前後方向の幅)が極めて大きい、スロッテッド式に属する機構を備え、なおかつ、弦長40%、および75%位置にスロット(気流の抜け道)を配するという、ほかにも類のない独自のフラップを作った。このスロットは、三段式スロッッテッド・フラップに似た効果を持たせることができ、今日で言うところの”アイデア賞モノ”と言えた。

フラップは、油圧操作により、0~99度までの間の任意の角度に固定することができ、着陸時は90度、急降下時は75度にセットするのを基本とした。75度に下げると、急降下しても最終速度(爆弾投下する直前の速度)を、314.8km/h(170kt)に抑えることができた。

このフラップのおかげで、急降下爆撃可能機に必須の制動版(エア・ブレーキ)の必要はなかった。


■最新の電子機器を搭載

海面に浮上して航行中の潜水艦は、視界さえよければ、搭乗員の肉眼、双眼鏡などによっても容易に発見できるが、実戦でまずそのような例は少ない。海面下の比較的浅い深度を航行中の潜水艦でも、運良く至近の上空を飛行しないと発見は難しい。

そこで、一七試哨戒機には、当時としては最新の電子機器だった機上電波短信儀(レーダー)が搭載されることとなった。


■生産ペースが上がらなかった試作東海

しかし、それまで単発の小型練習機の開発や、ほかの大手メーカー設計機の転換生産を専らとしてきた九州飛行機にとって、初めて手がけた双発機の試製東海は、細部儀装面などで戸惑うことが少なくなく、思うように生産ペースが上がらなかった。

結局、昭和19(1944)年中に完成したのはわずか88機にすぎず、昭和20(1945)年に入ると、B-29や艦載機による空襲などの影響もあって、8月15日の敗戦までに完成し得たのは、58機にとどまった。昭和18(1943)年中に完成した試作、増加試作機計7機と併せ、合計153機というのが試製東海の全生産数であった。


■日本本土、大陸沿岸部に配備

こうして昭和19(1944)年4月から生産機が完成し始めた試製東海は、同年夏頃から神奈川県の横須賀航空隊に少数が配備され、まず幹部搭乗員の訓練が実施された。そして、彼らが一通りのノウハウをマスターした後、同年10月には大分県の佐伯航空隊内に、最初の練成隊が編成され、彼らを指揮員とする一般搭乗員の養成が始まったのだった。

佐伯空での練成訓練を終了した搭乗員は、同年末頃から日本本土や大陸沿岸部に展開している海上護衛総隊(対潜作戦を主任務とする組織)隷下に属する、第九〇一、九〇三、九五一航空隊などの分遣隊として配備されていった。

この時点において、既に比島(現フィリピン)はアメリカ軍に制圧されたも同然であり、試製東海活動舞台は、日本本土周辺と大陸の上海沿岸、朝鮮半島の南方海域の海上交通路くらいに限定されつつあった。

昭和20(1945)年1月、試製東海はようやく制式兵器採用となり、陸上哨戒機「東海」一一型[Q1W1]と命名された。

東海を最初に実戦に用いたのは、昭和19(1944)年12月下旬から約2週間にわたって実施した、九州西方海域における敵潜水艦掃討作戦と言われ、佐伯空の6機が大村基地に、続いて朝鮮半島南方の済州島に12機が派遣されて、それぞれ哨戒・策敵に従事した。

また、昭和二十年1月1日の時点で、大陸の上海近郊の龍華基地にも12機が派遣されており、九〇一空の隷下に属して、周辺海域の哨戒、策敵に従事したと言われている。


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(注1)テーパー(翼):翼端に行くに従って、細くなっている梯形の翼(先細翼)

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(注2)アスペクト比:飛行機の翼の翼幅(翼端から翼端までの距離)の二乗を、その平面面積で割った値のこと。矩形翼では、これが丁度翼幅と、翼弦長の非に一致するので、縦横比などともいう。この値が大きいほど、翼の性能や効率は高いといってよい。(出典:零戦百科事典)


次回、第66号は、海軍の陸攻構想を超えた高性能長距離四発攻撃機『連山』をお伝えします。





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