日本陸海軍機大百科、三式戦闘機『飛燕』二型改[キ61-Ⅱ改] 2012
2/27
月曜日




日本陸海軍のシリーズ第62弾は発動機の更新により性能向上、稼働率の改善を図った新型三式戦『飛燕(ひえん)』を紹介しましょう。

発注側の陸軍と開発メーカーの川崎航空機工業の予測を上回る性能を示して、その実用化に大きな期待を寄せられたキ61(のちの三式戦闘機「飛燕」)は、試作1号機の初飛行直後に、早くも性能向上と武装強化を柱とした発展型の開発が始まった。これがキ61-Ⅱという記号を付与された試作型だった。しかし、本型は心臓たるべき発動機の開発で躓き、周囲の期待を裏切る惨憺たる結果に終わった。その苦難に満ちた始終を見ると陸軍航空と川崎が抱えていた多くの問題が、いかに深刻であったかを知ることができる。


■更なる性能向上を目指して

昭和16(1941)年12月12日、太平洋戦争開戦の4日後という絶妙のタイミングで初飛行を果たした川崎のキ61液冷戦闘機は、最高速度591km/h(高度6,000mにて)の陸軍戦闘機として最高ともいえる高速を示し陸軍航空本部の絶賛を博した。

自らの過誤に起因するとはいえ陸軍の現用主力戦闘機は、依然として固定式主脚の旧式化した九七式戦であり、後継機と目された一式戦「隼」は、わずか2個戦隊に50機程度が配備されるのみだった。さらに、「重戦」として期待したキ44(後の二式戦「鍾馗(しょうき)」)は、最前線での運用に不安があり、陸軍戦闘機隊の台所事情はまことに”お寒い”状況だっただけにキ61の出現はこの上ない朗報に違いなかった。

当然、陸軍はキ61の一刻も早い実用化を測るとともに、川崎に対し、その性能向上方の開発にも取り掛かるように命じた。川崎は、年明け早々の翌昭和17(1942)年1月、設計主務者である土井武夫技師を通じ、発動機の更新により最高速度640km/hを出せることが可能と陸軍航空技術研究所に答申した。新たにキ61-Ⅱと命名された新型の試作機3機、増加試作機5機の製作が内示された。


■速度向上と武装強化が骨子

陸軍側から川崎に対し、キ61-Ⅱの正式な試作発注が出されたのは昭和17(1942)年9月のことであった。キ61-Ⅱに搭載される発動機は、キ61-Ⅰが搭載した「ハ四〇」に水メタノール液噴射装置を追加したほか、冷却法も高温高圧式に変更するなど、各部にも改修を加えて離昇出力を27.6%増しの1,500hpにした「ハ一四〇」と決まった。

「ハ四〇」はドイツの傑作液冷倒立V型12気筒エンジン、ダイムラーベンツDB601A(1,175Hhp)を川崎がライセンス生産したものであった。”本家”ダイムラーベンツ社でも、改良型の開発は行ったが、ハ一四〇の改良法については川崎が独自に進めたものだった。

キ61-Ⅰは射撃兵装を12.7mm砲4門として設計したのだが、「ホ一〇三」12.7mm砲の調達不足により左右主翼内のそれぞれを旧式の九式7.7mm機銃で代用せざるを得なかった。

現下の太平洋戦争で相対するアメリカ軍機の防弾装備の強固さからして、最初の生産型キ61-Ⅰ甲の7.7mmx2、12.7mmx2の射撃兵装はいかにも頼りなかった。そこで、急ぎ当初の計画通りの12.7mmx4にしたキ61-Ⅰ乙、さらにはドイツから急遽輸入したモーゼルMG151/20、20mm機銃を左右主翼内に各1挺装備するキ61-Ⅰ丙の開発が急がれた。

このような状況下、キ61-Ⅱの射撃兵装もそれに劣らぬレベルが要求されたのは当然のことであった。基本的にはキ61-Ⅰ丙と同レベルの12.7mmx2、20mmx2とすることにした。もっとも輸入品で数に限りがあるMG151/20は当てにできないため国産の20mm砲で賄うことにした。

しかし、陸軍の20mm砲開発は海軍に大きく遅れをとっており、キ61-Ⅱが試作発注された昭和17(1942)年9月時点において実用化にこぎつけた単発戦闘機用のものはまだなかった。


■「ホ五」20mm砲に頼ったキ61-Ⅱ

窮余の策としてホ一〇三 12.7mmの口径を20mmに拡大した「ホ五」の試作は行われてはいたものの、これが実用化されるのはまだ当分先のことと予測された。だが、ほかに選択肢がない以上、キ61-Ⅱの20mm砲はホ五に頼るしかなかった。

このホ五を主翼内に装備するとした場合、本体がホ一〇三に比べて若干拡大しているためキ61-Ⅰの主翼厚では収め切れなかった。該当部分だけ厚みを増すと断面形そのものの空力バランスが崩れてしまうため、弦長(前後方向の幅、コードともいう)も相応に大きくしなければならなかった。このような事情もあってキ61-Ⅱの主翼は、全幅12mで変わらないものの弦長が少し大きくなり、面積も22㎡に拡大された新規設計のものに変更されることが決まった。


■機首まわりの変更

発動機が代われば、それに組み合わせるプロペラも当然変わる。キ61-Ⅱのハ一四〇に組み合わせるプロペラは、当初、キ84(後の四式戦「疾風」)と同じ、フランスのラチエ社の製品を国産化した電動式可変ピッチ機構を持つタイプを予定していた。しかし、同時の日本工業力では、オリジナルと同精度の電動式可変ピッチ機構を作るのが困難で、キ61-Ⅱは途中でキ61-Ⅰと同じ、使い慣れた油圧式可変ピッチ機構を持つアメリカのハミルトン系3翅プロペラの「ペ二六」に変更された。もっともこのプロペラペ二六は、キ61-Ⅰのそれと異なり、直系が10cm大きい3.1mでプレードの形状も微妙に違っていた。

ピッチ変更範囲も25度から35度に拡大しており、このことと関連する(ハブまわりの変化を伴う)ためか、スピナーの直径も10cm大きくなり70cmになった。この発動機換装と、のちにキ61-Ⅱのホ五20mm砲が機首上部内装備に決定したことの双方に起因すると思われるものだが、主翼の主桁中心を基点とするスピナー先端までの寸度はキ61-Ⅰに比べて33cm長くなった。

機首左側に開口する過給器空気取り入れ口が少し大きくなり、排気管まわりのパネル分割が変化したことも、キ61-Ⅱの目だった改修ポイントとなった。


■風防、そのほかの改修

同じダイムラーペンツのDB601Aを搭載する”本家”ドイツのメッサーシュミットBf109に倣った感じが強いキ61-Ⅰの風防は、その天井が胴体後部上面に繋がる、いわゆるファストバックと称される形態だった。しかし、このタイプは後方視界が十分に確保できず、戦闘機にとって褒められた形態とは必ずしも言い難かった。実際、同じ陸軍戦闘機メーカーとしてのライバルである中島飛行機は、九七式戦で既に全周視界可能な水滴風防を導入しており、同機に続く一式戦「隼」、二式戦「鍾馗」、そしてキ61-Ⅱと並行して試作が進行中のキ84(のちの四式戦「疾風」)も、すべて水滴状風防を備えていた。

川崎の技術陣もそのあたりは充分認識していたとみえて、キ61-Ⅱでは、同じファストバック式ながら、風防全体を再設計し、後部固定部の窓ガラス部分を広くしていくらかなりと後方視界が広くなるよう努力の跡は見せていた。

発動機出力がアップするということは、それだけプロペラ回転トルクも強くなるわけで、飛行中の方向安定度を高めるためには、垂直尾翼面積を相応に拡大するのが手っ取り早い方法である。キ61-Ⅱも、それを予め考え垂直安定板の前縁角度を少し緩める、すなわち、弦長を少し大きくすることで面積の拡大を図った。

キ61-Ⅱが搭載することになったハ一四〇発動機はハ四〇に比べて重量が100kg以上も増加し、機体の改修に伴う重量増も含めるとキ61-Ⅰに比べて、総重量で800kg前後の増加をきたすと予測された。

当然、降着装備に対する負荷もそれだけ大きくなり、キ61-Ⅱはキ61-Ⅰのそれに比べて、主車輪を直径で5cm上回る65cmサイズに変更する予定だった。もっとも、後に完成した試作機は、キ61-Ⅰのそれと同じサイズの主車輪をつけており、川崎設計陣が作図したキ61-Ⅱの基本三面図を見ても、60cmサイズのままになっているので、試作の途中で計画変更されたようだった。


■難航する試作作業

陸軍から大きな期待を寄せられていたキ61-Ⅱは、川崎が立てたスケジュールより約4ヶ月遅れて、昭和18(1943)年8月に試作1号機が完成した。折りしも、この時期はキ61-Ⅰを換装した最初の部隊である飛行第六十八、七十八戦隊が激戦区のニューギニア島前線で本格的な実践任務をこなすようになったときだった。

ところが、厳しい運用環境に晒されたキ61-Ⅰはそれまであまり表面化しなかった、ハ四〇発動機の故障、不調という深刻な問題が露呈し、その存在感を大きく損ねてしまう事態になった。そして、ハ四〇を搭載するキ61-Ⅱ試作機でも、それと同じ、もしくはそれ以上の欠陥が露呈し、開発計画そのものに暗雲が垂れ込めてしまった。

すなわち、油温上昇、冷却不良、圧力漏れ、油漏れ、振動などのほか、製造工程での工作、組み立て不良による故障も起こり満足に稼動しなかった。ニューギニアと違い、運用環境に何の不足もない条件下でさえこの始末では、到底、実用発動機として扱えるものではなかった。

試作機の審査を担当する航空審査部の所見でも、キ61-Ⅱの性能は高度6,000m付近にて最高速度595km/hとしており、これではキ61-Ⅰとまったく変わらず、新型に更新する意義がなかった。

昭和19(1944)年2月、当初に発注された計8機の試作/増加試作機の、その8号機が完成したが、これらのほとんどが発動機の不調により、まともにテストができなかった。期待されたキ61-Ⅱだが、このような状況により、陸軍の本機に対する熱意は急速に冷めていった。


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