日本陸海軍機大百科、海軍【艦上(局地)戦闘機『烈風』一一型[A7M2]】 2012
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月曜日




シリーズ第60弾は、日本海軍の零戦の正当なる後継艦上戦闘機【艦上(局地)戦闘機『烈風』一一型[A7M2]】を紹介しよう。


太平洋戦争開戦より1年4ヶ月も前の昭和15(1940)年8月に、日中戦争の主舞台である中国大陸にて実践デビューした零戦は、その傑出した性能で敵側航空兵力を圧倒して、無敵の強さを示した。しかし、本機が予想を超える成功作であったが故に、その後後継機開発を巡って、日本海軍には少なからぬ錯誤が生じてしまう。不幸なことに、その弊害をもろに被ったのが、ほかならぬ零戦を生んだ三菱重工の設計技術陣であった。大きな期待をかけられた同社の後継機「烈風」は、試作機が予想外の低性能に苦しみ、改良の末に制式採用にこぎつけたものの結局は戦争に間に合わなかった。

※もっと深く知りたい方は以下の書籍が参考になります。(私の読んだ書籍関連

最後の艦上戦闘機烈風―ゼロ戦後継機の悲運
松岡 久光
4895222977

内容(「BOOK」データベースより)
ゼロ戦を超える高性能機の開発にかけた技術者たちの苦闘の記録。

内容(「MARC」データベースより)
当時の資料をもとに編集した開発史。ゼロ戦を開発した三菱の技術者による期待の後継機「烈風」は、優れた設計にも関わらず、実戦に参戦することはなかった。幻の戦闘機となった烈風の真実に迫る。

緒元/性能表

■零戦の後継機開発の遅れ

昭和15年(1940)年8月、日中戦争(支那事変)たけなわの中国大陸に颯爽と実践デビューし、太平洋戦争初期にかけて、征くところ敵なしの強さを発揮した日本海軍の零式艦上戦闘機((零戦)は、発動機出力だけに頼らず徹底した軽量化と空気力学洗練を極限まで追及して高性能を実現した。

しかし、零戦が予想以上の成功作になった反動もあって、日本海軍は本機の後継機の開発に本腰を入れるのに遅れを生じた。三菱重工名古屋航空機製作所に対し、「一七試艦上戦闘機」の名称で試作指示が出されたのは、太平洋戦争開戦から4ヶ月後の昭和17(1942)年4月の事であった。零戦の試作発注からも既に5年近くが経過しようとしていた。

零戦は確かに1,000馬力級発動機から絞り出せる極限値の性能を持ってはいた。しかし、新型機が優位を保てるのは2~3年とされていた当時、次世代の敵戦闘機が1,500~2,000馬力エンジンを搭載して出現すれば、その優位はすぐに崩れてしまう。その点からしても、これらは明らかに怠慢であった。そうでなくても、すでに国運を賭した大戦争はは始まっており新型機の開発は平時の倍以上のスピードで進行していたのだった。

ただ、後継機開発の遅れを海軍側の怠慢と簡単に片づけられない面もある。その理由はいろいろあるが工業技術力、人的資源の不足など要するに国力の弱さという点に行きつく。

■アメリカとの国力格差



実際、零戦の実践デビューから間もない昭和15(1940)年末、日本海軍はその後継機として、三菱に対し「一六試艦上戦闘機」の計画名で試作内示していた。また、三菱側も[M-50]の社内名称により基礎研究を行い、翌16(1941)年1月に海軍に資料を提示している。

ところが、当時は三菱側も零戦の改良設計、量産、十四試局地戦闘機(のちの「雷電」)の試作などに忙殺されていて、とてもM-50設計にまで手が回らず適当な発動機が見当たらないこともあって、計画が中止されたといういきさつがあった。

それはともかく十六試艦戦機が見送られた時点で日本海軍と三菱が零戦の後継機を太平洋戦争に間に合わせるためのタイムリミットをオーバーしてしまったことは事実だ。

一方、このとき、海の向こうのアメリカ海軍ではひと足早くグラマン社がF4Fの後継機となるF6Fヘルキャットの開発に着手(1940年9月)していた。十七試艦上戦闘機の計画要求書が三菱に交付された昭和17(1992)年7月6日の時点で、F6Fの元型1号機は、すでに初飛行(6月26日)に漕ぎつけていたから、この時に勝負はついていたとも言える。

それでも、日本海軍が戦闘機の発達傾向と自国の航空工業界の現状を正しく把握していれば、この遅れを少しは挽回できるチャンスはあった。だが、残念なことに、その両方とも欠落していた。


■不条理な要求

海軍が十七試艦戦に求めた性能は、最高速度345kt(638km/h)以上、高度6,000メートルまでの上昇時間6分以内、航続距離は全力飛行30分+巡航速度で2.5時間という零戦に比べればかなり高いレベルではあった。もっとも、当時の欧米陸上戦闘機のレベルからすると航続性能は別としてそれほど高いというわけでなかった。

それよりも、問題なのは2,000馬力級発動機を搭載予定とし全備重量が零戦(三二型)の約1.7倍に相当する4.4トンのヘビー級の一七試艦戦に同等の空戦性能を要求した海軍航空本部の錯誤であった。

機体が大きくなれば空中での運動性能は軽くて小さい機体に比べれば当然低下する。この法則に逆らって設計しようとすれば機体が必然的に中途半端でどっちつかずの凡作になってしまうのは明らかだった。

確かに零戦の軽快な運動性は素晴らしかったが、この長所が全ての空中戦闘場面において有効というわけではない。敵戦闘機が格闘戦(ドッグファイト)を避け、垂直面の一撃離脱に徹してしまえば、はっきり言って敵機の射弾を回避するのに有効という程度の持ち味にしか過ぎなくなってしまう。

たまたま、太平洋戦争緒戦期における連合軍の装備機は二流機ばかりだった。しかも、搭乗員は実践経験が皆無。戦術すらも学んでおらず零戦が仕掛ける格闘戦に安易に引き込まれ、撃墜されてしまう愚行を重ねたことも零戦圧勝の大きな要因だった。

飛行性能で零戦に劣るといわれたアメリカ海軍/海兵隊のグラマンF4Fは当初の敗因を冷静に分析し、2機1組の編隊で一撃離脱戦術に徹する、いわゆる”サッチ・ウィーブ”(アメリカ海軍のジョン・S・サッチ少佐が編み出した戦法)を採用して対処した。その結果、昭和17(1942)年8月のガダルカナル島攻防戦を境に零戦に対して互角以上の戦いが可能になった事実こそ、その最たる証明だった。

■零戦の凋落

零戦の傑出した空戦性能もそれを活かせる場面がなければ、敵機にとって大きな脅威にならないということ。
得意技を封じられた零戦は、今度は逆に極限と言える軽量構造を実現するために犠牲にした防弾装備の不備、機体の強度不足など”負”の部分が目立つようになり、そのためかけがえのない熟練搭乗員を次々に失い、凋落が加速した。

要するに零戦の特質は、あくまで1,000馬力級戦闘機に適したひとつの形であって、2,000馬力級戦闘機にもそのままあてはまる類のものではなかったのだった。

だが、太平洋戦争緒戦期の一方的戦果に自己陶酔した日本海軍航空本部は零戦の空戦性能をそのまま後継機の成否の判断基準とし、一七試艦戦の成功の目を自ら摘んでしまった。

運動性能の高低は、翼面荷重の大小で決まり、この値が小さいほど運動性能は高くなる。零戦を開発した堀越二郎技師を主務者とする三菱設計陣は全備重量が4トンを超える一七試艦戦は、翼面荷重が150kg/㎡以上が望ましいと主張した。しかし、あくまで零戦三二型と同等の空戦性能にこだわる海軍はこれを認めなかった。

結局、一七試艦戦は翼面荷重を130kg/㎡に抑えるために、全幅14m、面積30.86㎡という3座の艦攻に等しい大きな主翼を持つはめになった。これではふやけたような大型機なってしまい2,000馬力級戦闘機にふさわしい速度などは到底出なない。

■リスクを内包した発動機『誉』



そして、海軍側の第二の大きな誤りは発動機を中島の「誉」とするよう三菱に命じたことだった。
よく知られるように、誉は当時の各国同級の空冷エンジンの中では極めて小直径、軽量だった。海軍はこの発動機に異常とも思えるほど執着し、昭和16(1941)年以降の新規開発機にはのべつまくなしに搭載を命じた。

しかし、誉は小型、軽量と引き換えに、各部には設計上相当の無理をしていた。それがため戦時下の厳しい運用環境の下ではこれが徒になってカタログどおりの出力が出ず、不調、トラブルを頻発して実用性が極端に低いという重大なリスクを内包していた。

だが、この危険に関しても海軍は全く考慮せず、ただ表面上の利点ばかりに目を奪われ、三菱側が強く求めた自社製A-20(NK9A-のちの『ハ四三』2,200hp)発動機の搭載を認めなかった。結論を先に言えば、この2点をもって一七試艦戦の命運は決まってしまったと言える。三菱技術陣がどんなに頑張ったところで、2,000馬力級にふさわしい高性能を実現することは到底不可能だった。



■肥大化する機体

前述したような海軍側の不適切な要求はともかく、命令が下った以上、三菱技術陣は新たに「試製烈風」[A7M1]と命名された一七試艦戦の設計に全力を注いだ。機体構造に関しては、とくに目新しい手法を用いわけではなく基本的には一四試局戦(雷電)のそれを踏襲し、各部をそれなりに強化した程度であった。胴体は、19本の隔壁(フレーム)にやや細やか目の35本の縦通材を通した骨組みの全金属製半張殻式構造であった。零戦は中島方式に倣った前後分割組み立て式で、主翼は全部胴体と一体構造になっていた。しかし、烈風は大型になったのと輸送の便を考慮し、胴体は前後一体、左右主翼を別造りトした。
この胴体の断面形に関しては「一四試局戦」が散々な不評を買った反省から、搭乗員の視界を可能な限り良好にするため、上部を細く絞り風防は完全な水滴型にし、かつ高い位置にしたことが特筆された。全幅14mに及ぶ巨大な主翼は各1本の主桁と補助桁に29本の小骨を配した骨組みで、断面形は層流翼型に近い三菱考案のMAC-361型を採用した。

■空戦フラップの採用

風洞試験の段階では付け根から上反角をつけたものと内翼は水平にし、外翼にのみ約8.5度の上反角をつけたものの2種が比較検討されたが、胴体との緩衝抵抗が少ない利点を採って後者が選択された。

空母搭載時の制限により外翼の約半分を上方に折り畳むことにしていたが、これは後に必要がなくなり生産機の段階では廃止されたと思われる。零戦の約1.7倍という大重量の本機に相応の離着艦性能を与えるには、通常のフラップは使えなかった。そのためスロット式の本体はスプリット式の子フラップを組み合わせた親子式二重フラップにして対処した。なお、このフラップは空中戦の際に旋回能力を高めるための空戦フラップとしても兼用でき、油圧により機体の加速度/計器速度の大小に比例して自動的に角度が変化する追従式フラップの機能を持っていた。零戦の時代にはなかた新しい装備であった。


■不十分な防弾装備

射撃兵装は全て内翼内に装備され、20mm x 2、13mm x 2 を予定していたが、現下戦況の推移を視て生産機では 20mm x 4 に強化された。操縦室内面方に35mm厚の防弾ガラスを備え、胴体内燃料タンクを防弾式としたのは戦時中の開発機としては当然であった。しかし、搭乗員の背後の防弾鋼板、主翼内燃料タンクの防弾対策がなんら考慮されていないことなど、零戦時代の苦い教訓は依然として活かされていない。日本海軍の現状認識の甘さはこういう部分にも表れていた。

大重量を支える主脚は当然ながら極めて高い強度を必要とした。そこで特にドイツから輸入したハインケルHe100戦闘機のそれを参考にし、零戦よりもシンプル、かつ生産背の高いものとした。主車輪は零戦のそれよりもひとまわり大きい 700mm x 200mmサイズの半高圧車輪を採用した。轍間距離(トレッド)は零戦並みでも事足りたが4★ちょう★プロペラの直径が大きい(3.60m)こともあり地上とのクリアランスを確保するために主脚が長くなったことで、4,225m(零戦は3.50m)になった。艦上機としても十分すぎる広さであった。

昭和18(1943)年も後半に入ると、戦局は日本軍に著しく不利となり、南太平洋の最前線では、ついにアメリカ海軍の新鋭2,000馬力級戦闘機F6F、およびF4Uが本格的に実戦参加してきた。従って零戦はいっそう苦しい戦いを強いられるようになっていた。

■期待を裏切る低性能

このような状況下、海軍は「試製烈風」の完成を急ぐようにはっぱをかけた。だが、同社技術陣の試作能力の限界もあって作業は遅れ、昭和19(1944)年4月19日にようやく1号機の完成に漕ぎつけた。

計画要求書の提示から1年9ヶ月後であり、ライバルのF6Fに比較しても格別長期間を要したわけではなかった。ただ、2年近い開発着手の遅れは取り戻せなかった。完成した1号機をテストした結果は、海軍、三菱ともに極めて失望すべきものであった。すなわち、最高速度は要求地をはるかに下回る300~310kt(555~574km/h)どまりだった。零戦の新型五二型に比較しても同等か僅かに優る程度で上昇力に至っては高度6,000mまで10~11分(零戦五二型は7分)という低さだった。

零戦の伝統を受け継いで操縦安定性、離着陸性能などが良好といっても戦闘機にとって最も重要な速度、上昇能力が前述したような結果では、新型機としての存在価値はほとんどない。

海軍側はこの低性能の原因は、機体設計の失敗にあると断じた。そして追い打ちをかけるように軍需省からは昭和19(1944)年8月4日付で「試製烈風」は生産を見送り、三菱工場は川西「紫電改」の転換生産に転ずべしという屈辱的な指令が発せられた。

この通告に対し、当初から『誉』発動機に不振を抱いていた三菱技術陣は、低性能の原因は発動機が計画通りの出力を出していない所為だと主張した。海軍に不服を申し立て、当初に会社側が希望していた自社製MK9A発動機を搭載してテストする許可を求めた。

■三菱側の正当性を証明



実際、三菱が計測したところ、試製烈風が搭載した『誉』二二型は高度6,000mにて1,700hpという触れ込みだったが、現実には1,300馬力程度しか出ていないことが判明していた。自らの不適切な指示に起因した問題でありながら、三菱の主張をなかなか認めようとしなかった海軍もその強い要求に屈し、社内作業の範疇で行うことを条件にしぶしぶ了承した。

三菱は、昼夜兼行に近い突貫作業の末、昭和19(1944)年10月に試製烈風の試作6号機を改修したMK9A搭載の[A7M2]1号機を完成させた。そして、本機を三重県の鈴鹿整備工場に空輸してテストしたところ、高度5,800mにおいて最高速度337kt(624km/h)、高度6,000m迄の上昇速度6分5秒というほぼ計画要求値に近い性能を出した。ただ、客観的にみると欧米の新型単発戦闘機の最高速度が平均して700km/hを超えようとしていた当時、A7M2の性能は、はなはだ頼りない値ではあった。

それはともかくとして、日本海軍が絶大な期待をかけていた川西「紫電改」の最高速度は、319kt(590km/h)程度に過ぎなかった。同機の発動機が『誉』という点も考えれば、操縦安定性、離着陸性能という面で『紫電改』より遥かに良好なA7M2の”商品価値”は当然高くなる。

三菱から報告を受けた海軍が、直ちに実験部隊を派遣しA7M2の性能を確かめたところ、三菱の報告通りであることが判った。そして、掌を返すように昭和20(1945)年2月、『試作烈風』を下命した。誠に節操のない話しだった。

三菱の執念は実ったとはいえ、烈風に残された時間は僅か半年しかなく、太平洋戦争そのものが既に最終局面を迎えようとしていた。

次回は、海軍のレシプロ戦闘機の極限性能を狙った驚異の前翼型形態機の局地戦闘機『神震』を紹介します。
お楽しみに。


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 【艦上(局地)戦闘機『烈風』[A7M2]】緒元/性能表

名称 局地戦闘機『烈風』一一型
形式 低翼単葉引込脚
乗員 1名
主翼寸法 全幅 14.000m
全長 水平静止時 11,040m
三点静止時 約10,810m
全高 水平静止時 4,230m
三点静止時 約3,700m
主翼 翌型断面 M.A.C 361
翼面積(胴体、補助翼含む) 30.86㎡
翼弦(最大) 3,000m
上反角 tan12/100
取付角 付根 2度
翼端 0度
補助翼面積 1,240 x 2㎡
尾翼 水平安定板面積 1,962 x 2㎡
水平安定版取付角 0
上昇舵面積(修正舵含む) 0.710 x 2
垂直安定板面積 1,219㎡
垂直安定板取付角 0
方向蛇面積 0.996㎡
降着装置 車輪形式 半高圧油圧制御式
車輪寸度 700 x 200mm 4.5気圧
車輪間隔 4,225m
尾輪寸度 200 x 75mm
燃料装置 燃料 胴体内タンク 115リットル
翼内タンク 285 x 2リットル
落下増槽 600リットル
水メタノール液タンク 200リットル
潤滑油タンク 80リットル
重量 自重(固定備品含む) 3,266.7kg
搭載量 1,453.1kg
正規全備 4,719.8kg
搭載量/全備正規 30.8%
第二荷重重量 5,1787.8kg
第三荷重重量 5,315kg
発動機 名称 三菱「は四三」一型(MK9A)
基数 1
馬力 離昇最大馬力 2,200hp
第一速 公称馬力/公称高度 (hp/m) 2,070hp/1,000m
第二速 公称馬力/公称高度 (hp/m) 1,930hp/5,000m
回転数 第一速 公称高度 (r.p.m./m) 2,800hp/1,000m
第二速 公称高度 (r.p.m./m) 2,800hp/5,000m
離昇 (r.p.m.) 2,900r.p.m.
ブースト 第一速 公称高度 (r.p.m./m) +420/1,000
第二速 公称高度 (r.p.m./m) +420/5,000
離昇 (mm/m) +520
液速比 0.472
プロペラ 形式 VDM油圧式恒速プロペラ P1 or P2
翔数 4
直径 3.600m
兵装 機銃 九九式二号20mm機銃四型 x 4
(弾倉包 200発 x 4)
爆弾 1kg,30kg,60kgいずれか2発
装備品 三式空一号無線電話機 一式
一式空三号帰投方位測定器 一式
酸素吸入装置 一組
消火装置 一組
自動消火装置 一式
電熱被服および照明装置 一組
性能 速度 第一速 公称速度 555km/h/2,200m
第二速 公称速度 620km/h/5,100m
着陸 126km/h
上昇力 上昇率/高度 14.0m/分/6,000m
時間/高度 5分58秒/6,000m
実用上昇限度 12,200m
航続力 正規全備状態 (速度/高度/時間) 全力5,000m/0.5hour,
および417km/h/3,000m/2.0hour
第二過荷状態 (速度/高度/時間) 全力5,000m/0.5hour,
および417km/h/3,000m/4.7hour



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