日本陸海軍機大百科、局地戦闘機『秋水』 海軍[J8M1] 2011
10/28
金曜日







シリーズ第五四弾は、高度1万mまで3分半で駆け上がる、驚異のロケット防空戦闘機、『秋水(しゅうすい)』を紹介しましょう。

 劣勢に陥った戦局を立て直そうと、日本海軍が乾坤一擲(けんこんいってき)の大作戦をもって臨んだマリアナ沖海戦も、惨憺たる敗北に終わった。そして、そのマリアナ諸島を制圧したアメリカ軍が、革新の超重爆ボーイングB-29を同諸島に集結させ、本格的な日本本土空襲を実施することが日を見るより明らかになった。この”難敵”B-29に痛撃を与えられる唯一の存在として、日本陸海軍が、異例の共同開発という形で一刻も早い実用化を目指したのが、史上前例のないロケット防空戦闘機『秋水』である。しかし、関係者たちのその超人的な努力も、報われることなく終わってしまう。


■ロケット動力の利用価値
 第二次世界大戦期まで、こと航空技術という面において、世界をリードしていたのはアメリカでもロシア(ソビエト)でもなくドイツであった。
 そのドイツが、第二次大戦中に世界に先駆けて実用化した2種の革新的動力航空機が、ジェット、およびロケット機でだった。


 ジェットの方は今日の盛況ぶりからして、紛れもない”革新的動力”と言われたが、ロケットの方は、実用化まで昇華した機は現れず、一時の”徒花”のような存在に終わってしまい、軍用航空界への貢献度は極めて低い。
 しかし、ロケット動力の利用価値は、戦後の宇宙開発やミサイル兵器などへの転用で著しく高まり、ドイツの技術者たちの彗眼は、今日、さまざまな分野に大きな貢献を果たしていると言える。
 もともと、ロケット動力を兵器にに利用すると言う考えは古くからあり「火矢』と称した火薬を使用するロケット兵器は、すでに中世の時代の戦争でも盛んに用いられていた。
 しかし、一瞬のうちに燃焼してしまう火薬ロケットは、航空機用動力には全く不向きで1930年代末までその利用を考える者など一人もいなかった。

■2人の”おたく”がロケット機の生みの親
 ドイツには、既成の概念にとらわれない自由奔放な発想をする航空技術者が多くいたが、その1人がアレクサンダー・リッピシュ博士だった。
 彼は、尾翼を持たない形態の航空機、すなわち「無尾翼機』にしか興味がなく、1920年代からずっとその研究一筋に歩んでいた”変わり者”だった。
 一方、軍港都市として有名なキールの造船所に勤務していた20代の若き技術者、ヘルムート・ヴァルターは、艦船用魚雷の推進動力に利用するロケットモーターの研究に没頭していた。
 ヴァルターのロケットは、燃料に火薬ではなく薬液を使うのが特徴で、過酸化水素を主成分とする薬液とメチルアルコール(メタノール)を主成分とする薬液を化学反応させて燃焼、その際に発生する高温、高圧でのガスを推進力に利用するというのが原理だった。
 1937(昭和12)年、ドイツ国立航空研究所(DVL)は、このヴァルターの薬液ロケットを航空機動力に用いることを前提に、HWK-RI-203という名称を与えて、試作品の製作を発注した。

以前読んだ本、技術者魂に心が躍る(↓)
日本初のロケット戦闘機「秋水」
―液体ロケットエンジン機の誕生

松岡 久光
4895223922

 そして、その試作品の完成の目途がついたところでハインケル社に対し、これを搭載するロケット実験機He176の製作を発注した。さらに加えて、当時リピッシュ博士が試作した「デルタIXC」と名称する無尾翼形態機にも、ヴァルターのロケットを搭載して実験を行いたい旨の指示が出された。
 当時、リピッシュは公立のドイツ滑空研究所(DFS)に籍を置いており、この実験機は、正式にはDFS194の名称が付与された。しかし、DFSもリピッシュにしても、ロケット無尾翼機を製作するには荷が重すぎたため、航空省の計らいもあって、部下10人ともども躍進の航空機メーカ、メッサーシュミット社に転職することになった。第二次世界大戦勃発の気運が高まっていた1939(昭和14)年1月のことであった。

■実験機から防空戦闘機に格上げ
 DFS194の機体そのものは、全幅9.3m、全長5.3mの木金混成構造の木型尾翼機なので、それこそあっという間に完成したのだが、肝心のHWK-RI-203ロケットエンジンの実用化に手間取ったため、初飛行はすでに大戦勃発から3ヶ月余り経った、1939(昭和14)年末にずれ込んだ。
 HWK-RI-203の推力はわずか300kgに過ぎなかったが、DFS194はテスト飛行を重ねるごとに、最高速度も300km/hから480km/h、さらに550km/hと高めっていき、既存のレシプロエンジン機とは、比較にならぬ素晴らしい上昇性能を示して航空省の関係者たちに強烈な印象を与えた。
 このDFS194のテスト結果に注目したドイツ空軍は、ただちに防空戦闘機としての可能性を確認し、メッサーシュミット社の「L」部門(リビッシュの頭文字を冠した技術チームの名称)に対し、新たにMe163Aの正式名称を付与した試作機3機(V1~V3)の製作を命じた。
 そして、推力を750kgにアップしたHWK-RⅡ-203ロケットエンジンを搭載した1号機、Me163AV1は1941(昭和16)年8月13日に初飛行に成功、10月2日には3号機Me163AV3がテスト飛行にて1,011.26km/hという、夢のような超高速を記録したのである。

■超高速戦闘機の開発
 当時、ドイツ空軍の主力戦闘機であるBf109Fの最高速度が600km/hそこそこであったことからしても、ロケット機とレシプロ機の隔絶した速度性能差には、誰もが大きな衝撃を受けた。
 もっともロケット機を単なる実験機として扱うのならともかく、実用戦闘機に仕立てるとなると、大小さまざまなリスクを克服しなければならなかった。
 その最たる課題がわずか数分間しかないエンジンの稼働時間、特殊、かつ危険な薬液燃料の取扱、保管、備蓄の困難さだった。まともな判断力のある組織であれば、まず諦めてしまうのが普通だろう。
 しかし、ドイツ空軍は夢の超高速にすっかり魅せられてしまい、あらゆるリスクを度外視してMe163を防空戦闘機として配備するため、L部門に対して全面的に再設計を施した実用型、Me163Bの開発を命じた。
 ドイツ空軍が多大のリスクを承知でMe163Bの実戦配備をすすめたのは、将来、アメリカ陸軍航空隊の四発重爆群がイギリス本土を基地とし、大挙してドイツ本土上空に来襲するであろうことが予測されたからにほかならない。
 それらに対し決定的な打撃を与えるには、既存のレシプロ戦闘機では力不足であり、Me163の隔絶した超高速のような、はっきととした優越感を示せる”兵器”が望ましかったのである。
 
■海を越えて日本に渡ったロケット戦闘機構想
 そのMe163Bが、多くの難題をどうにか克服し、実用テストも最終段階を迎えた1943(昭和18)年末、本気に強い関心を示し、その国産化許諾を申し出た国があった日本であった。
 当時、日本も太平洋戦争の劣勢が著しくなり、断片的な情報が入るようになっていたアメリカ陸軍航空軍の新鋭四発超重爆、ボーイングB-29による本土空襲の可能性が現実味を帯びてきていた。
 B-29は、それまでに南方戦線で大戦したB-17やB-24とは格段にレベルの違う高性能で、高度1万m付近を570km/hの高速で飛び、5,000km以上の後続力を発揮するとされていた。
 日本では、排気タービン過給器の実用化もおおぼつかず、このB-29に対し、まともに迎撃できる戦闘機など、早急に実現出来そうになかった。とどのつまり、ドイツ空軍がMe163Bに期待を託すしかない、と考えた状況と同じになった。
 直ちに、日本海軍が主導する形で、重罪武官を通じたドイツ空軍との交渉が始まり、必死の懇願の末、翌1944(昭和19)年3月、ようやく国産化の許諾を取り付けることに成功した。
 しかし、この頃すでに、太平洋の制海空権は連合軍が完全に掌握していて、通常の船舶を使ったドイツから日本への輸送ルートは断ち切られており、実機の参考部品などの搬送は不可能だった。
 そこで採られた手段が、潜水艦による技術資料のみの搬送だった。当時、ドイツとの相互連絡任務にあたっていて同国に寄港していた、「呂号第501」、および「伊号第29」の2隻の潜水艦に積み込まれた資料は、3月末、4月中旬にそれぞれ別々日本へ向けて搬送された。
 ところが、先に出発した呂号第501は、5月13日、大西洋上にて連合軍に発見されて沈没されてしまい、7月14日、シンガポールに辿り着いたのは、伊号第29のみであった。
 同艦に乗り込んでいた責任者の巌谷英一技術中佐は、シンガポールから内地向けの海軍輸送機に乗り換え、7月19日海軍航空本部に到達した。

■陸海軍共同で国産化を遂行
 窟谷中佐が携えてきたのは、手荷物になるような小さなカバンに収容された、機体、エンジンに関する簡単な説明書と、燃料の取り扱い方法、およびその比重表、その他一般的資料のみだった。残りは、伊号29とともに後日、本土に到着するはずだったが、同艦もまたシンガポールを出航して4日後に比島北方海域でアメリカ海軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、逢えなく沈没してしまった。
 結局、日本海軍が入手したのは、国産化を図るにはあまりに乏しい資料で、航空本部、同技術廠内部でも実現不可能とする意見が多かった。
 しかし、この時点において当のB-29による日本本土空襲は始まっており(6月15日を皮切りに)事態は急を要する、という技術廠長和田操中将の”鶴の一声”で、8月7日、国産化を強行することに決定した。
 国家存亡の危機にあたる、という背景もあり、Me163Bの国産化は、前例のない”陸海軍共同作業”という形を採り主契約メーカーは三菱重工(株)1社に絞り、機体は海軍、ロケットエンジンは陸軍が担当する体制で臨むことになった。
 統一制式名称は、侍の命でもある刀に喩え「秋水」と決定、それぞれの制式兵器記号は海軍が[J8M1]、陸軍が[キ200]とした。

■不眠不休に近い突貫作業
 国産化を一手に引き受けた三菱は、機体のほうに高橋己次郎技師、ロケットエンジンのほうに持田勇吉技師をそれぞれ主務者に配し、文字通り”昼夜兼行”に近い突貫作業に着手した。
 限られた資料とはいえ、小柄な無尾翼形態機、しかも主翼と垂直尾翼は簡単な木製ということもあって、機体のほうは11月に設計完了、12月には試作1号機の完成にこぎ着ける、という超短期開発を実現した。
 もっとも、ロケットエンジンのほうは簡単にはいかず、とくに資料が欠落していたタービン駆動ポンプの歯車(インベラー)を手探りで独自に設計しなければならなかったことなどもあり、作業は難航した。
 それでも、翌20(1945)年6月末頃には連続運転可能状態にこぎつけ、7月4日には海軍向けの1号機、その前日には陸軍向けの2号機にそれぞれ搭載された。
 因みに、この国産化されたロケットエンジンは、主担当の陸軍では「特呂二号」(特呂とは特殊ロケットの略)、海軍では「KR-10」(KRはKusuri Rocketの略)と命名した。
 共同作業とはいえ、エンジン名称はそれぞれ別に命名する点など、将来の陸海軍が面子にこだわって、低レベルの反目を繰り返した”名残り”を感じさせる。

■待望の初飛行も空しく
 三菱技術陣の昼夜いとわぬ奮闘努力により、秋水は国産化決定から1年以内という驚異的な短期間の作業の据え、昭和20(1945)年7月上旬には、1号機の初飛行可能状態にこぎつけた。
その記念すべき1号機の初飛行は、海軍が担当しt横須賀・追浜基地で行われることが決まり、7月7日の夕方4時55分にロケットエンジンに点火された。
 そして、尾部の噴出口から、独特の緑色の縞状焔を吐き出しつつ舗装された滑走路を高速で疾駆し、軽やかに離陸した。操縦するのは滑空練習機「秋水」で充分な訓練をこなした大塚豊彦大尉だった。
 離陸した機体は、45度の急角度で上昇に転じ、レシプロエンジン機と全く違う見事な飛行ぶりに地上で見守る関係者の間からは思わずバンザイの声が上がった。
 しかし、それも束の間、高度約350mまで上昇した1号機は、突然バンバンという異常音を発し、エンジンが停止してしまった。

■敗北で全てが無に帰す
 大塚大尉は、貴重な機体を失うまいと、万一の場合は海に不時着水するという事前の打ち合わせでの取り決めを破り、急激に高度を下げる機体を必死で操り、滑走エリアに戻ろうと旋回した。
 だが、沈下率が予想以上に大きく、最終アプローチに入った直後、滑走アリア手前の建物の屋根に接触し、そのまま墜落、機体も大破してしまった。
 ただちに現場に駆けつけた救助隊により潰れた操縦室から救出された大塚大尉は行き来不明の重体で、病院に搬送されたものの、翌日未明に死亡してしまう。
 改修された残骸を検分した結果、エンジン停止の原因は、タンクに1/3しか注入しなかった薬液が、急角度の上昇姿勢によりタンク後方に偏ったことで、エンジンに薬液を送る吸い上げ口が露出してしまい、空気を吸い込んだためと判明した。
 ただちに、2号機以降、吸い上げ口の改修が実施され、改めて初飛行のための準備が命じられたがトラブルによる作業の遅れなどもあり、実現しないまま8月15日の敗戦を迎えた。
 こうして、陸海軍が総力を挙げて取り組んだ日本版ロケット戦闘機計画は何ら戦局に寄与しないまま、全てが徒労に帰してしまったのだった。


 次回は、海軍 艦上攻撃機『天山(てんざん)』を紹介します。(2011/10/28 22:47)

※サイト:日本陸海軍機大百科




Copyright (C) 2011 Shougo Iwasa. All Rights Reserved.