日本陸海軍機大百科、特殊攻撃機『九九式襲撃機/軍偵察機』[キ51] 2011
9/4
日曜日

 シリーズ第五一弾は、陸軍最初にして唯一の、襲撃/偵察2役兼用機とした「九九式襲撃機/軍偵察機」を紹介しましょう。海軍航空が、その草創以来、水上艦船の補助兵力という位置づけで発展したのと同様に、陸軍航空も、明治時代末期の勃興から30年近くにわたり、その存在価値の根幹を成したのは、あくまで主兵力たる地上部隊の補佐に徹する諸任務であった。しかし、昭和10(1935)年代に入ると、陸軍航空も独自の作戦遂行能力を持つべき、との思想が台頭し、装備する各機種にもさまざまな変化が表れた。そのひとつが、従来地上軍の耳目としての存在に徹した偵察機分野に、対地攻撃を専らとする襲撃機としての兼用を旨とする軍偵察機が加わったことだった。


■偵察機の規定
 昭和10(1935)年代に入ると、陸軍航空の用兵思想が「航空撃滅戦」(敵の航空兵力を叩くための単独作戦)を重視する傾向となったのに伴い、偵察機分野にもはっきりとした3種の”区分”ができた。昭和12(1937)年2月、「陸軍航空兵器研究方針」と題する中で開発方針が改定され、それぞれの名称と内容は次のように規定された。

◆司令部偵察機
 主として航空作戦に於ける神速(素早いという意味)なる情報の収集、および連絡に任じ、挺進敵に使用し得るもの。とくに水平速度絶大にして、高々度においても行動し得る複座機とする。行動半径400km+余裕1時間を有する。飛行団、あるいは飛行師団などの上級司令部の作戦立案に供する。

◆軍偵察機
 従来の偵察機をさすが、とくに遠距離捜索を主任務とし、軍、および独立師団の作戦に供するもの。


◆直協偵察機
 九二式、九四式偵察機に近い機体で、第一線の地上部隊に密着して行動し、捜索、指揮・連絡、および砲兵隊への協力(弾着観測など)任務に用いる。小型機で空、地双方にて軽快な運動性能を発揮でき、最前線の不整地からも容易に離発着できるもの。行動半径200km+余裕1時間を有し、師団以下の作戦に供する。

■軍偵察機と襲撃機の兼用
 昭和13(1938)年2月、航空本部は三菱に対し、キ51の試作番号により、はじめての軍偵察機の開発を発注した。
 同年、研究方針が改定され、すでに検討課題になっていた「襲撃機」が初めて明文化され、航空本部は、陸軍最初の襲撃機にキ51を充てることにした。キ51はひとつの機体で2役を兼用することになった。

■襲撃機の定義
 ・主として敵飛行場にある飛行機、ならびに地上軍隊の襲撃に用いる。
 ・超低空、ならびに降下爆撃に適し、努めて行動を軽快ならしめる。
 ・行動半径は、爆弾200kgを携行した標準状態にて400kmとし、1時間の余裕を持つこと。
 ・使用する爆弾は50kg以下とし、地上銃撃のため、前方指向の固定機関銃1挺(のちに2挺に変更)を備える。


■順調に進んだ試作機
 三菱は基本検討を重ね、出された結論は、当時、制式採用が決まって間もなかった三菱九七式単発軽爆撃機「キ30」をベースに、これを小型化した機体でゆくとうことになった。
 キ51の搭載発動機は、九七式軽爆のそれよりも90hpほどパワーの大きい自社製「ハ二六-Ⅱ」(海軍名称「瑞星」一五型)空冷星形複列14気筒(940hp)に決まった。胴体、首尾翼の形状、構造は前述したように九七式軽爆のそれをほぼ踏襲しており、寸度的に全長が約1m、全幅が2.4mほど小さくなった。
 外観上も極めて酷似した両機だが、最も目立った相違は、同じ複座でありながら、操縦者と同乗者の席をずっと接近させ、コンパクトな風防で覆うようにした。

■安全性を高めた固定式主脚
 当時の陸海軍の各種新型機は、ほとんご引込式主脚が標準であったが、軍側からの要求された最高速度が420km/hでそれほど厳しい値ではなく、九七式軽爆のそれに倣い、敢えて固定式とした。さらに、最前線の不整地からの離発着には固定式のほうが安全性は高く、整備・取り扱いも容易であることなどを勘案しての選択だった。こうして大きな問題もなく、キ51の試作はスピーディに進み、設計着手から1年と少しで試作1号機が完成したのは、昭和14(1939)年6月のことだった。

■試作機テストから制式採用
 軍のテストを受けたキ51試作機は、最も重要なポイントとされていた低空域での操縦性は極めて良好、最高速度は高度3,000mにて424km/hと要求値を上回り、小柄な機体は取り扱いも容易と、軍側を大いに満足させた。ただちに、三菱に試作2機に続く増加試作11機の製作が発注され、実用審査を急ぐよう指示がなされた。
 軍からの要修正点は、発動機の振動がやや激しいこと、着陸時の失速癖は取付部の緩衝ゴムの変更と、主翼端近くの前縁に固定スロットを設けて、外翼前縁に2度の捻り下げ角を付けることで解決した。
 9月から12月にかけて増加試作機による実用テストも支障なく進み、翌15(1940)年には量産も始まった。これを受け、陸軍は5月11日付けをもって、キ51を「九九式襲撃機/軍偵察機」の名称で制式採用した。

■実戦での地上軍を支援
 昭和16(1941)年3月頃から、日中戦争の偵察、捜索、指揮・連絡、戦果確認、対地攻撃などの諸任務にフル回転して、地上軍を支援した。揚子江湖北と四川省の省境付近の左右切り立った深い峡谷を縫うように、低空飛行のポイント銃爆撃を行えたキ51の土壇場と言えた。

 太平洋戦争での活躍は、マレー半島攻略作戦では、連合軍側地上部隊を常に上空から監視し、これに適宜銃・爆撃を加えて撃退、攻略作戦成功に大きく健闘した。また、マレー半島最大の頑固な陣地と言われたスリムの縦深陣地を突破した。さらに、比島(フィリピン)ではパターン半島攻略作戦では、軍偵が線密に撮影した偵察写真が大いに役立った。そして、蘭・印(オランダ領東インド:現インドネシア)のスマトラ島では、ジャワ島攻略作戦に加わり、地上軍の侵攻を支援した。
 キ51の最大の戦果としては、欄印軍がガリジャッッティ島飛行場の奪回を企画して、戦車、装甲車など150機以上の大機甲部隊を差し向けてきた。これに対し、九七式双軽爆部隊と共に、飛行場の西にある端梁を攻撃して、敵の車両が飛行場に侵入してくるのを防ぎ、次に狭い道路を縦列になって進んでくる機甲部隊の攻撃し、先頭の戦車と最後尾の車両を破戒して、隊列を身動きできなくした。

 次回は、海軍 『零式艦上戦闘機五二丙型』を紹介します。

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