シリーズ第四六弾は、性能的な旧式化を知りつつ、戦争末期まで使われた海軍の艦爆の苦難となった『九九式艦上爆撃機』一一型を紹介しましょう。日本海軍最初の全金属製単葉形態の艦爆として、日中戦争末期に実戦デビューした九九式艦爆は、太平洋戦争緒戦期にかけてめざましい活躍を見せた。固定式主脚という、古めかしい外観ながら、熟練搭乗員の”神業”的技量の高さが本機に能力以上の戦果をもたらしたと言える。しかし、アメリカ海軍相手の本格的な戦闘が続くにつれ、本機の第一線機としての旧式化が明白となり、損害ばかりが増え実戦果も挙がらなくなった。
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■緒戦の栄光から苦闘へ
太平洋戦争開戦劈頭のハワイ、真珠湾攻撃から、昭和17年4月のインド洋海戦まで、秘本海軍航空機動部隊は、文字通り"向かうところ敵なし”の恋々連勝の戦いを繰り広げた。零戦、九七式艦攻とともに、その空母艦上機兵力の一角を占めた九九式艦爆も、めざましい戦果を上げて、栄光の絶頂にあった。しかし、日本海軍がこうした栄光に酔いしれている間に、戦争の展開は少しずつ変化しており、やがて、それが空母機動部隊、そして九九式艦爆の前途にはっきりとした兆候になって表れてきたた。
■各海戦の状況
【珊瑚礁海戦】
昭和17(1942)年5月8日の珊瑚礁海戦は、史上最初の”空母対空母”対決となったが、2隻の空母(「瑞鶴」「翔鶴」)に43機の九九式艦爆を搭載、8日には33機が発艦、空母2隻に25番(250kg)爆弾を命中させたが、対空砲化により9機を失い、損失率は27%となった。
【ミッドウェイ海戦】
昭和17(1942)年6月5日、日本海軍は主力空母4隻と、その搭載機の全て(計255機、うち九九式艦爆は84機)、加えて熟練搭乗員の多くを一挙に失い、戦力の大幅低下を来した。空母「飛龍」から1回目に発艦した九九式艦爆18機は、わずか5機しか戻らなかった。
【第二次ソロモン海戦】
昭和17(1942)年8月24日、それまでにアメリカ軍がガダルカナル島への上陸作戦を敢行し、本格的な対日反攻に転じたことをうけ、同島の攻防が始まった。日本側は3隻の空母に計144機、うち九九式艦爆は54機、第一次攻撃隊の艦爆は27機が出撃、敵の空母3隻のうち2隻に計3発の命中弾を与えたが、グラマンF4F艦戦に捕獲さて、更に対空砲火を浴び、計18機を失い損失率は66%となった。
【南太平洋海戦】
昭和17(1942)年10月26日、九九式艦爆は3隻の空母から延べ6次にわたり、計53機が発艦した。敵の2隻の空母に10発程度の命中弾を与え、うち1隻を致命傷に至らしめた。しかし、F4F艦戦や対空砲火により35機を失い、損失率は66%となった。
単純にいえば、損失率50%は2回の作戦実施で部隊が全滅するということである。
■性能的な旧式化
固定脚をもつ九九式艦爆の最高速度は380km/hであり、後継機たるべき「彗星」の実用化の目途がいまだ立たないという苦しい事情があり、九九式艦爆をもうしばらく、第一線で使わざるを得なかった。そうした状況下の昭和18(1943)年1月、発動機を「金星」五四型(1,300hp)に換装、各部を改修した[D3A2]が、九九式艦上爆撃機二二型として制式兵器採用され、その際、旧式の[D3A1]が九九式艦上爆撃機一一型と改称された。
■「い」号作戦
昭和18年4月7日の「い」号作戦では九九式艦爆二二型を実戦配備したが、出撃数23機のうち、78%にあたる18機を失う大損失となった。搭乗員の間に葉誰言うことはなしに、九九式艦爆ならぬ”九九式棺桶”と揶揄されたあだ名がついた。
■「ろ」号作戦
「ろ」号作戦以降は第一線機としての活動は、事実上終焉した。比島(フィリピン)、沖縄攻防戦では九九式艦縛も特攻機として体当たり攻撃と化し、多くの若い命と共に散っていった。
■生産機数
各型(一一型、二二型)あわせて1,512機が生産された。
次回は、海軍の夜間戦闘機『月光』一一型を紹介します。
※サイト:日本陸海軍機大百科
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