日本陸海軍機大百科、特殊攻撃機『剣』[キ115] 2011
8/27
土曜日

 シリーズ第四〇弾は、陸軍の戦争末期の混乱に乗じて生まれた前代未聞の特攻専用機『剣』を紹介しましょう。太平洋戦争末期の昭和20(1945)年に入ると、日本陸海軍航空戦力は、質、量共にアメリカ軍に大差をつけられ、もはや、正常な航空作戦を実施し得る術をなくしていた。そのよいうな状況のもとで、海軍は体当たり自爆攻撃という最終手段に訴える兵器、特殊攻撃機「桜花」の実用化に奔走する。そして、陸軍もそれに準ずる特殊攻撃機として、急ぎ開発したのがキ115「剣」だった。「桜花」ほどではないにしろ、本機の内実は常軌を脱するもので、正常なる判断に基づき本機を不採用とした審査部のお陰で実践に使わないまま終戦したことが、唯一の救いと言える。


■特別攻撃機開発の背景
 昭和19(1944)年6月、最後の決戦という気概で望んだアリアナ沖海戦で大敗を喫した日本海軍は、もはや正攻法の航空戦でアメリカ海軍に打撃を与えるのは不可能だと悟ったのだ。そのような雰囲気の中で、必然的に発想されたのが、爆弾を懸架したまま敵艦に体当たりする自爆攻撃、すなわち、のちの神風特別攻撃であった。

■簡素化した攻撃の発想
 中島飛行機は東京・三鷹市に新設した研究所(設計部門)では、高々度近距離戦闘機(キ87)の試作機が進められていたが、発動機「ハ四四」や排気タービン過給器などの動力系統の開発が難航していた。キ87がB29の対撃墜戦闘機として実用化するまでは、相当の日数を要すると予測された。しかも、B29の空爆はすでに始まっていたため、開発意義の根底が揺らいできていた。中島は先行き目途の付かないキ87よりも、現下の戦局に即応できる航空機を作ったほうがよいのではないかと陸軍に提案した。この時点では決して特攻専用機ではなく、爆弾を胴体下面に懸架する考えだった。昭和20(1945)年に入り、比島攻防戦が日本側の敗北で終局を迎えつつある状況下、陸軍航空本部は、1月20日、当初は中島の提案を全く採り上げなかったが、一転して中島に小型攻撃機案を特殊攻撃機「剣」[キ115]の名称で試作発注した。

■前代未聞の簡素機
 青木技師を主務官として設計作業に着手、わずか一ヶ月半後の3月5日には早くも1号機を完成させた。完全消品と見なされていたための簡素化策が図られた。発動機は、搭載価値の無くなった空冷星形複列14気筒「ハ一一五」、海軍板「栄二一型」の余剰品を活用、胴体は何の変哲もない真円断面で、骨組み、外板は銅材(ブリキ板)<主翼はジェラルミンを用いた。全長8.57m、面積12.4mと極端に小さなサイズで、当初はフラップもなかった。垂直、水平安定版は木製、方向蛇、昇降蛇は木製骨組みに羽布張りとされていた。風防は前方固定部のみで乗客部は開放された。計器類は速度計、高度計、全会計、回転計、羅針儀など、必要最小限のものが8個据え付けられたシンプルなものだった。操縦桿、座席、床はすべて木製だった。

■実際に飛ばそうとすると・・・
 本機の重大な欠陥が露呈した。平均的技量の操縦者でさえ、飛行は極めて困難であることが判明した。
 ◆離陸は操縦室が後方に寄っているため、滑走を始めると前方がほとんど見えず、蛇行して離陸方向の確認をしなければならなかった。滑走中、地面のわずかな凸凹でも、緩衝機構のない主脚から直接、操縦室に衝撃が伝わってきて、耐え難い苦痛をもたらした。地面の凹凸を通過するとき、機体は大きくバウンドし、回数が増える毎にそれがひどくなり、転覆の危険さえ感じられた。
 ◆離陸して上昇に移っても、翼面荷重が高いので上昇率は緩慢で、水平、旋回飛行のいずれの場合も横安定が悪く、常に補助翼、方向蛇、昇降蛇を操作していないと正常に飛行できなかった。
 ◆着陸も難しく、機種上げ姿勢で飛行場に侵入しようとしても前方が見えないので、機首を左に少し偏向し、機首滑りしながら接地する高度なテクニックを駆使しなければならなかった。着陸滑走中のバウンドも、離陸と同様にひどく、3mも跳ね上がった。

■それでも・・・
 航空審査部における実用テストが散々な結果となったにもかかわらず、陸軍参謀本部と航空本部は、すでにキ115の試作発注と当時に中島に対して量産を命じた。

■キ115の評価
 敗戦まで計105機が完成したものの、1機も実戦投入されることなく、その生涯を終えた。不採用に終わったことで、どれほど多くの若い命が無駄に失われずに済んだことは明らかだった。

 次回は、海軍の対陸上爆撃機『銀河』一一型を紹介します。

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