日本陸海軍機大百科、『二式水上戦闘機』 2011
8/19
金曜日

 シリーズ第三四弾は、名機零戦をベースにして誕生した、日本海軍最初の水上戦闘機だ。日中戦争の初期に日本海軍の二座(複座)水上偵察機は、本来の用途とは全く違った分野で想像以上の活躍をした。敵の複葉陸上戦闘機に対しても互角以上の空中戦ができる、その快適な運動性能が注目された。このことが、やがて日本海軍に空中戦専用の水上機、すなわち水上戦闘機の開発を促すきっかっけとなった。最初に誕生したのが、ゼロ戦をベースにして改造設計された二式水上戦闘機だった。世界でもまれな成功例と言えるその二式水戦だったのだ。

■水偵に求められた空中戦闘能力
 軍縮条約によって水上主力艦(戦艦など)の保有数を、対米、英海軍の6割に制限されていた日本海軍は、その不足分をカバーする手段として洋上航空兵力の拡充に力を注いだ。その一環として、当然のことながら主力艦や水上機母艦に格納される、二座(複座)水上偵察機の性能向上に重点を置いたのだった。
 二式水偵の任務は、敵艦隊の動向を探る哨戒、偵察任務が主だった。その他、雌雄を決する砲撃戦の際には味方艦の弾着観測を行い、その命中率を高めるにも重要な任務だった。この弾着観測を行う際に、敵の同種敵とはち合わせする可能性が大いにあった。そのためこれを撃退する目的から、ある程度の空中戦闘能力、すなわち軽快な運動性が求められた。

■本命とつなぎ
 本来、川西航空機に対して、本命は「一五試水上戦闘機」[N1K1](強風)と命名されたのだったが(海軍側が要求した性能の骨子は、最高速度648km/h以上、航続力は正規にて1.2時間、巡航速度において6時間以上、(ただし、上昇能力についての具体的な数値は示されなかったようだ)、この零戦改造型水上機は「強風」就役までの”つなぎ”という役割を果たしていくことになった。

■ピンチ・ヒッターの登場
 一五試水戦が試作発注された頃、日本を取り巻く情勢は一段と厳しくなっていた。いわゆる「ABCD包囲網」に対しての武力解決、すなわち米、英、中、オランダを敵に回しての開戦もやむなし、という雰囲気が固まりつつあった。
 そうなれば、戦略資源の乏しい日本はすかさず南方侵攻作戦に打って出て、マレー半島や蘭印(現:インドネシア)などの石油、鉱物資源を確保しなければならない。しかし、南方の島々に直ぐには陸上飛行場を造成できない。従ってそれが完成するまでの間、占領地域の防空や哨戒などをこなせる唯一の機種として、水上戦闘機の重要度はさらに増したのだった。ここに昭和16(1941)年、日本海軍は中島飛行機に対してゼロ戦の改造版水戦を発注した。

■中島が改造
 中島飛行機が零戦に対して施した改造のポイントは、まず主脚や尾脚、着艦フックなどの降着装置を全廃して、それらの収納孔や操縦室内の操作関係機器も全て撤去、整形した。そのうえで、改めて胴体下面に大きな主浮舟(メイン・フロート)、左、右主翼仮面に補助浮舟(サブ・フロート)を設置下。大きな空気抵抗源となるこれらの浮舟本体の形状はもとより、支柱のアレンジにも可能な限りのシンプルさ、かつ空気力学的洗練を配慮した。その結果、一号水戦の浮舟まわりの設計は、当時の世界列強国の水上機とは一線を画す優れたものになった。

■戦果
 ソロモン戦域のツラギ島、ブーケンビル島近くのショートランド島、、アリューシャン列島のキスカ島でそれなりの戦果を挙げた。マーシャル諸島方面では、空中戦の機会が全くなく、周辺地域の哨戒任務であったため、水戦隊は削除された。
■生産機数
 昭和18(1943)年夏までに計254機が作られた。

 次回は、陸軍 一式戦闘機『隼』三型を紹介します。

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