シリーズ第二五弾は、海軍のゼロ戦32型。「栄」一二型発動機(940hp)を搭載した一号型[A6M2](のちの一一型)が、中国大陸上空に鮮烈なる実践デビューを果たした昭和15(1940)年秋頃、海軍とメーカーの三菱は早くも零戦の性能向上型の開発を検討していた。この「二号型零戦」[A6M3]と呼ばれた新型は、太平洋戦争開戦から半年後に大きな期待を背負って量産に入ったのだが、実戦部隊での評価は予想外の低さだった。希代の名機と絶賛される零戦の改良・発展過程で起きた意外なる痛恨事、いわゆる「二号零戦問題」となったのだった。
パソコンのモニターの前で撮影
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■零戦三二型の主な改良点
・発動機を栄一二型から二一型へ換装(二足過給器、降流式気化器)、それに伴うカウル周りの変更
・主翼翼端の折りたたみ部分を廃止し、その部分を角型に整形(全幅12m→11m)→翼面荷重が上がる
→ロール(横転)操作時の即応性を改善する狙い
・九九式20mm機銃のドラム式弾倉を大型化し携行弾数を増加(60発→100発)
ところが相対的に向上すると思われた性能は望めなかった。
・最高速度530km/h(計算上-20km/h)
・高度6,000メートルまでの上昇時間7分20秒(1分以上遅くなった)
・航続力の低下(3,000km(一号型)→2,375km)
海軍側を落胆させた三二型であったが、時はすでに太平洋戦争勃発をうけて量産に入った。昭和17(1942)年8月6日、激戦地である南東方面の要地ラバウルに進出した本機は、ソロモン諸島南端のガダルカナル島への作戦には使えなかった。ラバウルから直線距離にしてガ島まで1,000km、同島上で空戦時間を加味すると燃料消費量からして、二号型零戦では到底、往復の作戦飛行は不可能だったのだ。二型零戦は昭和17(1942)年に打ち切られた。生産機数は合計343機。
■零戦二二型
名誉挽回を図った二二型の改良点は、
・左右外翼内に容量四〇リットルの燃料タンクを増設
・主翼足の折りたたみ部分を復活→翼面荷重が下がる
しかしながら、皮肉なことに制式兵器採用された零戦二二型が実施部隊に配備された昭和18(1943)年には、すでにガ島攻防戦も日本側の敗北に終わった後であった。このため、航続力の恢復はさして重要な意味をもたなくなっていた。生産機数は560機にとどまった。
次回は『疾風甲型』をお楽しみに。(2010/08/31 21:38)
※公式サイト:日本陸海軍機大百科
※名古屋航空宇宙館にあった零戦三二型(2002撮影)
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