日本陸海軍機大百科、艦上攻撃機『流星改』 2010
8/3
火曜日

 シリーズ第二二弾は、愛知製の艦上攻撃機『流星改』だ。僕はこの艦上攻撃機「流星」はよく知らなかった。それもそのはず、終戦間際に実戦配備され、その段階ではすでに日本海軍の空母は姿を消していたからだ。

 1930年代前半期に、列強国海軍の航空母艦における打撃力の基本概念が確立した。それは、魚雷による雷撃、もしくは大型爆弾による水平爆撃を任務とする艦上攻(雷)撃機と、250kgクラスの爆弾による急降下爆撃を任務とする艦上爆撃機の2種類で構成する、というものだった。しかし、1940年代に入って周辺事情が変化すると、日本とアメリカ海軍ともに、両機種を統合した新発想の艦上攻撃機1種で賄おうという機運が高まり、具体的な施策計画が練られた。その日本海軍が、本機である。

■艦攻と艦爆の設計上の相違
 艦上攻撃機は重い魚雷や大型爆弾を懸架するため、速度や俊敏な運動性能よりも、むしろ低速飛行時の安定性と航続力、乗員3名を擁することからくる航法能力の高さなどが優先された。これに対し一発必中を旨とする艦上爆撃機は、急降下時の風圧と、その引き起こし時の強烈なG(重力)に耐えうる機体構造、さらに投弾後は敵戦闘機との空中戦にもある程度対応できる身軽な運動性能などが要求された。このように両機種の設計上のは顕著な違いがあった。

■アメリカ海軍に先駆けた着想
 1940年代に入って列強国海軍に相次いで就役した新型戦艦は、防御装甲も分厚く、250kg爆弾ではそれを貫徹して致命傷を与えにくくなっていた。このため、艦爆にも500kgクラス以上の大型爆弾携行能力が求められるようになった。また、この頃になると艦船の対空防御システムの向上や敵側の艦上戦闘機による防空体制の強化が図られるようになりなった。このため艦攻も雷撃時の低高度域における高速化と、回避運動に必要となる身軽な運動性などが求められるようになった。これにより、艦爆と艦攻は設計上に大きな違いがなくなってきたのだった。そのような現実を踏まえ、日本海軍は艦攻と艦爆の任務を1機種でこなすことができる機体を、昭和16(1941)年度の次期新型艦上攻撃機試作の前提条件とした。そして愛知時計電機に「一六試艦上攻撃機」[B7A]の開発を命じた。

■玉虫色の過酷な要求
 一六試艦攻に対して海軍側が要求したスペックは常であったように過酷な条件であった。スペックは割愛するが、零戦を凌ぐ速度と陸軍の双発重爆に匹敵する航続力を持ちながら、ある程度の空中戦能力も備えるという、日本海軍の悪癖である”玉虫色”の欲張った要求の感が強かった。そして、その実現が容易でないことは愛知の技術陣が一番よく分かっていた。

パソコンのモニターの前で撮影

愛知時計電機製『艦上攻撃機 流星(改)』

○発動機は中島の「BA11」(後の「誉」)が海軍側から指定
○プロペラは推進力に効率よく変換するためドイツのVDM社製を元に住友金属が国産化した定速4翅の組み合わせ
○大航続力を実現した主翼
→逆ガル翼(日本軍用機として前例のない措置)は正面から見てW字状になるその屈折部に主脚を取り付け、通常の長さに抑えた。
○合計1,600L(ドラム缶8本分)の燃料を全て翼内に収め、そのまま主翼外板を兼ねるインテグラル、およびセミインテグラル方式を採用。→防弾対策は全くの無防備

■実用化までの苦難
 昭和16年、試作第一号が完成するが、出来栄えは設計を根底から揺さぶるほどに悪かった。深刻だったのは構造強度を大きく誤ったためだ。愛知技術陣は主翼構造の全面的刷新を含め、思い切った再設計を施しながら、2号機以降の製作を急いだ。海軍側からどうにか実用可能の判定が下されたのは、太平洋戦争も末期段階に入った昭和19(1944)年10月のことだった。一六試艦攻は昭和20(1945)年3月に艦上攻撃機「流星改」[B7A2]として制式兵器採用された。

 既に日本空母艦を維持する力はなく、陸上基地に配備せざるを得なかった。結果的に愛知技術陣が心血を注いだ艦上機としての諸能力実現のための努力は、全て徒労に帰してしまった。生産機数は110機だが、戦果はその真価を発揮しえないまま終わってしまった。

 次回は三式戦闘機『飛燕一型丁』をお楽しみに。(2010/08/03 21:41)

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