日本陸海軍機大百科、『零戦二一型』 2010
3/12
金曜日

 シリーズ第一一弾は、中島飛行機の『零戦』二一型。この日本陸軍機大百科は60号まで続くが、出荷遅れがあり、昨日、10号~13号まで届いているのだ。

 さて、昭和16(1941)年に入り、日・米開戦が必至の情勢となるにおよび、海軍は零戦の配備数拡大と戦闘損失による補充に対する備えとして、三菱と並ぶ日本最大手の航空機メーカの中島飛行機による「転換生産」(ライセンス生産の意)を決定した。対象となった型式は当時の主力一号二型(のちの二一型)で、同年11月から生産機が完成しはじめる。太平洋戦争がはじまり、三菱製三二、二二、五二型が就役したのちも、これら中島製二一型は零戦隊の中核戦力として屋台骨を支え続けていくのだった。

 中島が「転換生産」した一号二型は、基本的に三菱の製造図面通りに作られたが、それは機体設計や構造などの根幹にかかわる部分に限ってのことで、それ以外の、例えば内部艤装などについては中島のマスプロ方式(大量生産)に沿うように独自に設計変更がなされており、全く同じというわけではなかった。

 部隊では混用使用(三菱製、中島製)される場合、整備・取り扱いの観点からも、外観上で一見して明確に区別できることが望ましかった。ひとつが日の丸標識のみに幅75mmの白フチを取り付けた。さらに途中からスピナーが少し長くなったことも特徴。中島工場では二一型の量産が終了したときの総数は2,821機だった。

パソコンのモニターの前で撮影

『零戦二一型』[A6M2]

 また中島の二一型派生型としては、複座の「零式練習用戦闘機一一型」[A6M2-K]がある。特徴は、短縮されたアンテナ支柱、主翼内20MM機銃は原則的に撤去、主脚下部覆いを取り外している。

 この読み物では、「増槽」について解説されており、日本海軍が世界に先駆けて実用化した落下増設槽は前例のない装備であり、開発過程においてさまざまな工夫が凝らされた。昭和18(1943)年になると航空機製造に不可欠なジュラルミン材料の不足が懸念されるようになり、木製(合板)の増槽が作られるようになった。懸吊部の気流覆いは廃止され、増槽に安定ヒレが付けられた。

 次回は『一〇〇式司偵二型』、乞うご期待。(2010/03/12 21:55)

※サイト:日本陸海軍機大百科


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