先週、本屋を徘徊中に「歴史通 WILL別冊4月号」の特集として”零戦と坂井三郎の時代”が取り上げられいた。今日はその中から一部を話題にしよう。
零戦の優位性、神話となっているのはそもそも開戦から7、8ヶ月という短い期間であった。 ミッドウェイ海戦からマリアナ沖海戦では劣勢に立たされたことは多少の本を読みかじった人には既知の事実だろう。大本営は日本国民にはひた隠しにし、ミッドウェイ海戦で戦った軍人は一時的に隔離されたりもした。大本営は情報封鎖をしたわけだ。
アメリカはこの頃から戦術・戦法を変えてきた。従来はドッグファイト(一騎打ち)で、零戦では運動性というもっとも得意な能力と、老練な実戦経験を踏んだパイロットで初戦の華々しい戦果を上げてきた。
しかしアメリカ軍は「敵の弱点を突くと同時に、自分の得意とする形で闘う」ようになった。「一撃離脱/Hit and Run」へと米軍は転換を図ってくる。
「ロッテ戦法」(二機か四機のチームを組んで、体力や労力を使わずチームワークによって一瞬で勝負を決めてしまう)は先鞭をつけた。
二機一組で闘う戦術)から、さらにジョン・サッチ海軍少佐はロッテ戦術をもとに独自の戦法を考案した。二機一組が並行して飛び、お互いの背後を見張りつつ、片方の機の背後に零戦が現れたらもう一機がそちらに急旋回する。つまり、零戦がどちらか片方を追いかけようとするともう一機がそちらへ回って、零戦を狙う。こうして左右に入れ替わりながらジグザグに飛び、二機一組で闘う。動きが糸を紡ぐのに似ていることから、この戦法は「サッチ・ウィーブ/Thach
Weave(サッチの機織り)」と呼ばれ、徐々に浸透してていった。
米軍は、血で得られた貴重な戦訓を少しずつ実践していったからだ。これら「一撃離脱戦法」と「サッチ・ウィーブ」で米軍は零戦の力を削ぐことが出来るようになった。
このことにより、零戦の優位性を完全に封じ込めることに成功したのだ。
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昭和19(1944)年初夏、アメリカ海軍は膨大な戦力をもってサイパン・グアムなどのマナリア諸島の完全占領を目指した。
他方、日本海軍ももてる力のすべてを振り絞って、これを迎撃した。
両軍の参加した航空母艦のみを数えても24隻、艦載機は軽く1200機を超す史上最大の激突となった。
日本海軍は真珠湾攻撃の際の六隻を上回る九隻の航空母艦を揃えていた。また、ちょうど二年前のミッドウェイ海戦の教訓を踏まえ先手をとり、第一次、第二次攻撃隊合わせて200機を送り出すことに成功する。この時点で、艦隊の将兵すべてが勝利を予想したことだろう。
ところが、結果はあまりに無残な敗退であった。
アメリカ艦隊はレーダーに誘導された新型戦闘機F6Fヘルキャット400機を迎撃に差し向けた。この状況は第六次まで続けられた。 攻撃隊の末路をみればあきらかである。
日本海軍は、爆弾を抱いた零戦(爆装零戦)を含めると、出撃した187機のうち、104機が撃墜された。強力な対空砲火に打ち落とされたものもあったが、大部分はヘルキャットによる損失である。
新たに登場し、F4Fの後継となったこのF6F戦闘機は、2000馬力のエンジンを搭載し、全く格の違う航空機で、これが400機という大編隊で待ち伏せていた。
後にこのとき、「マナリア沖の七面鳥狩り」と完全に零戦は老いさらばえてしまった。結果を下段の表に掲げる。第6次の攻撃で日本海軍の損失率は実に62%にのぼる。
零戦が戦果を上げたのは、その時の戦争目的と戦術、状況によく合った戦闘機だったからだ。だが、惜しむらくは短命だった。”二の矢”を準備していなかった。
→省吾の零戦ページ
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