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河口湖自動車博物館【飛行機館】
2007年 8月 8日(水)

 毎年、8月のみ一般公開される河口湖自動車博物館の「飛行機館」へ行ってきた。4年前から是非行きたいと思っていたのに、機会を失していた。今年は何としてでもお盆前の平日に行っておかないと。ということで、平日1日お休みを頂き、零戦を堪能してきたのであった。事前の下調べは高速道順・料金、河口自動車博物館迄の道順程度、日焼けしないよう長袖のTシャツと防寒用に薄手の赤のレザージャケット、タンクバックにフル充電したデジカメを入れて、さあ、出発。

距離 経路 通常料金
浦安
11.2km 首都高速湾岸線(東京線)
700円
有明JCT
4.2km 首都高速11号台場線
芝浦JCT
0.7km 首都高速1号羽田線
浜崎橋JCT
3.3km 首都高速都心環状線
谷町JCT
12.1km 首都高速3号渋谷線
東京
83.7km 東名高速道路
2,050円
御殿場を降りて、R138を北に進む。東富士五湖道路(有料)通り、富士スバルラインに向かって進むと料金所信号手前にの右側に立て看板(左写真参照)がある。そこから数分。
富士スバルラインの目印がある。
ここが河口湖自動車博物館の入り口だ。
飛行機館の外観。見るからに普通の倉庫だが、この中に修復された、されつつある零式艦上単座戦闘機があると思うと心が躍る。外見は地味ですけどね。
インターネットのサイトでも確認済であったが、カメラを固定さえしなければ写真撮影は可能なのだ。
今回、今年の零戦特別更改のポスター。21型の超美しいフォルム、無駄のない美しさのなかに静かな闘志と強さを感じる。この面構え、素晴らしい。
2001年航空ファン9月号に掲載されたもの。これは6年前にはじめて零戦52型が公開されたときのものだ。
ここから零戦21型の写真を。21型は初期の11型を経て世に送り出された。老練なパイロットの腕もあり、向かうところ敵無しだった。実際、一番バランスが良いのもこの21型で戦争末期では、敢えて新人には21型(があれば)に搭乗させたという話もある。これはベテランパイロットより生還率が21型に若手パイロットを乗せた方が高かったと坂井三郎の著書でも読んだか、実際のところはどうなのか?

半世紀近くも南の島に放置され破損し朽ち果てた零戦の残骸を復元・再生させたのである。中島製(製造番号:91518号機)、ここまで素晴らしく復元された零戦、その労力には原田館長の業績には頭が下がる思いである。それにしてもパーツの大部分を改めて作り直したのだから莫大なコストはかかったのだろうことは容易に想像できる。
ちょっとピンが甘いが、エンジンカウルが外された状態で今年は展示されている。しかも14気筒は几帳面に復元されおり、過去(2000年8月)に試運転している。今年もやるかもしれない、そんな情報もある。だったら絶対行くな。
※8/20 河口湖自動車博物館に電話確認したところ、現在、未定(延期)とのこと。エンジン始動する場合は、河口湖自動車博物館のサイトに掲載されるとのこと。→要チェック。
(事後談:結局、この年はエンジン始動はなかった。僕は栄エンジンの音だけ録音したアナログレコードとCDも持っている。レシプロエンジンとして最高のサウンドだと思う、絶対自分の耳で聴きたい。来年は是非始動してほしいものだ)
エンジン下部にあるキャブレター空気取入口(インテーク)。
左主脚。元の主脚は分解再生、塗装されている。オレオ(油圧スプリング/ダンバー)は萱場(カヤバ)製作所製品、標準タイヤは直径60cm、幅175mmの600x175。(空気圧3.5kg/mu)
取り外された状態のエンジンカウリング(発動機覆)。
【零戦二一型】(A6M2b)
製作数:三菱740、中島2,628機
●特徴
 1.クルーシー無線帰投方位測定器を装備。
 2.主翼端折りたたみ装置あり。
 3.着艦フックあり。
 4.昭和17年春以降の中島機は少し長めのスピナーを採用。
 5.排気管は第5カウルフラップ位置に開口(11型の通産35機目以降)
 6.20mm機銃発射口は、初期生産機を除き、カバー付き。

左後方から21型を望む。見てほしい、この美しい無駄のないデザイン。ああ、誰もいなければ、コックピットまで駆け上ってシートに座ってみたい。零戦パイロットになった夢を数度見た。でもうまく乗りこなせないんだ。四苦八苦してもがいているところで目が覚める。
 
同じく、右後方からのショット、ね、美しいでしょう。機体前部分。手前に少し写っているのが20mm機関銃。
主翼下からのショット。
小さいから見辛いですが、
形式:艦上零式戦闘機二一型
製造番号:中島91518号(ごうは旧字)
製造年月日:空白
所属:空白
この角度でも素晴らしいフォルムですね。堀越次郎(設計主務者)もデザインにはかなり凝っていて、最後部に向けてすーーっと絞り込まれた胴体もすばらしい。全くデザインに無駄が無いですよね。究極の空気力学って感じもしますね。
零戦の復元されたプロペラです。
 
翼端折り畳み部分の構造。この部分を折り畳むことで展開時12mの全幅が左右、50cmずつ短縮されて11m(正確には10955mm)となりスペースの苦しい母艦上での作業(特にエレベータによる飛行看板への昇降)を容易にしたとのことです。
コクピットをカバーするキャノピー(風防)、これも回収機と寸法合わせされた上、修復されている。
零戦21型に搭載された中島 榮12型エンジン。これは戦争中、エンジンには泣かされた日本でしたが栄エンジンは安定してメンテナンスも容易だったエンジンだそう。

※栄(さかえ)
・空冷星型九気筒(単列)エンジンで「寿」、「光」を開発した中島が独占分野の海軍戦闘機エンジンとして引き続き成功を博した複列の十四気筒エンジン。中島は「光」に至って九気筒エンジンでは技術的に頭打ちとなり、三菱の「金星」に遅れをとった、しかし、十四気筒エンジンの開発には必死の努力を続け、「寿」は十四気筒板を試作して陸軍に「ハ五(九七式850馬力)として採用されたものの、海軍の審査には落第した。これと併行して試作を進めていた十試600馬力も三菱の「瑞星」に劣っていたが、中島は全力をあげて設計を洗練し、「光」「寿」の改良の他、「金星」からも長所を取り入れ、離昇940馬力のエンジンとして成功した。これが「栄」で、零戦の計画当初は候補に上がっていなかったが、海軍は零戦試作第三号機からこのエンジンを装備するよう三菱に命じた。これにより零戦11型に搭載されていた「瑞星」は不採用となり、中島は再び海軍戦闘機エンジンの暖簾を保つことになった。
エンジンに張られているプレート。
弁調整(角度・間隙)、点火角度、点火順序、燃料、滑油(オイル)、製造、修復履歴等。
 
軽合金鋳造のクランクケース。シリンダーの固定部スタッドがよく解る。
奥に見えるのはシリンダヘッドの燃焼室。ツインプラグ点火方式、圧縮比7.2.良好な燃焼室形状に加えて当時として割りに高い圧縮非違と150mmのロング・ストロークが好燃費を生み、零戦の長い航続距離に貢献した。とゼロ戦復元の記録にある。

手前はクランクケース前蓋側に付く減速ギア・ケースの後蓋。
 
(左)クランクケースにつながる部分。

(右)上側が過給器の翼車室吸気入口カバー。14気筒エンジンの吸気マニフィールドに混合気を分配する。
  
 
  ピストン
(右)排気管が接続される部分。

(中)シリンダー・バレル。イタリアのスペシャライズド・メーカーに依頼し完成させた。上部のねじ込み、下方のフランジ部(ツバ)をクランクケースのスタッドに固定する。
 
(中)クランクケースから覗いたところ。
  
(左)21型用の発動機架。
(中)零戦52型用エンジンマウント(奥)と零戦21型用エンジンマウント(手前)
(右)零戦52型用エンジンマウント
零戦21型用エンジンマウント
零戦52型を簡単に写真で紹介。

【零戦52型】(A6M5)
製作数:三菱1,608機(52甲、52乙型まで含む)、中島 多数
●特徴
 1.カウリング全体を空力的にリファインしディーテールが微妙に変化。
 2.水力式単排気管を導入、後方の胴体外板に耐熱要パッチが追加された。
 3.主翼端折りたたみ装置を再び廃止して全幅11mに短縮、翼は塩を円形状に整形。
 4.52型乙の途中から、プロペラ、ハブ周りが変化し、スピナーが少し大きくなった。
 5.九九式二号20mm固定機銃三型を標準装備。ただし、52型乙以降はベルト給弾式九九式二号20mm機銃四型に更新され、主翼上、下面点検扉も変更された。
 6.アンテナ市柱は短縮。
 7.垂直安定板上部の外板パネル分割ラインが変化。
 
右前から望んだところ。主脚が付いていないので、かなり低位置から機体・エンジンが覗ける。
エンジンは栄 21型。

※零戦11型、21型に搭載された「栄12型」は当初、振動と向上主要部の焼損が多かったが次第に解決され、零戦32型以降から採用された「栄21型」は二段過給器付きとなって離昇1130馬力に向上した。
栄エンジンは14気筒だが、複列となっていて前側に7気筒、後ろに7気筒が星型に配備されている。美しいではないか。
  
零戦52型もフォルムが美しい。
  
後からのショット、52型。なんの無駄もない。尾翼等は、まだ未完成。
52型の前でセルフポートレート。
左後方から。
 
大戦中のパイロットは、最初、赤とんぼと呼ばれた「93式中間練習機」で練習して一人前に育っていく。そして能力に達しないものはどんどん切り捨てられていった。教官が後に乗れるようになっている。(副座)伝導管というのがあって教官と練習生が話せるようになってる、まあ、筒みたいなものですね。

  胴体部分から中を覗く。

 一式陸上攻撃機22型。(後部胴体)の前で。ヤップ島より回収された。

 【概要】一式陸上攻撃機【G4M1〜3】
九六陸攻の後継機種として日華事変の末期から太平洋戦争の全期を通じ、海軍の全地域に活躍した双発陸攻、一二試中攻として三菱の本庄技師の主務設計で試作され、初号機は昭和一四年に進空した。(零戦百科辞典より)

 一式陸攻は、アメリカからはライター呼ばれた。(ぱっと火が付くので)防備力は弱かった。(航続力の要求から、燃料容量を増すため、インテグラルタンク(※作りつけタンクのこと、主翼の小骨、桁、外板で囲まれた空間をそのままタンクとして使用すること)の採用を余儀なくされ、防弾装備の欠如から、大戦中期以降は被害が増大した。昭和一八年に完成した34型は主翼構造を変えて、防弾タンクを装備した。) 胴体の日の丸が搭乗員の乗り口となっている。

正式採用年:昭和17年
生産機数:1054機
全幅:24,890m
全長:19,630m
重量:8000kg
発動機:火星21型(1570hp)
最高速度:437km/h
胴体部最大幅:2m
胴体部最大高:2.5m

一式陸攻 火星1850馬力。
(左)エンジンマウント。
(中)同じく一式陸攻エンジン。
(右)これは型が違う。
  
(中)この中間3号練習機のポスターを見て、憧れてパイロットに応募した若者は多かった。採用試験は非常に厳しいものであったそうだ。一連、訓練を終え、本人の希望も聞かれるが、選別され運動能力・操縦技術・掃射技術に優れたものが戦闘機乗りに選ばれていった。戦闘機に選ばれなかった人は爆撃機・攻撃機や通信士などと振り分けられる。
   
  
  
  
(左)敵国の標識を判断するものも。当時、日本国内で墜落し怪我・大火傷を負った日本人搭乗員が敵(外国人)と勘違いされ殴り殺されるということもあった。それ以降、搭乗服には日の丸の腕章が巻かれた。

(中)これは戦後の話でしょうね。戦後は日本は航空技術には一切、手を出してはならない魔の7年間があった。

(右)「空だ、男のゆくところ」搭乗員勧誘のため、文中には、・・この大空に戦ふことこそ日本男子の本懐です。・・・・とある。男の憧れとお国のためにと若者は散っていったのだ。
(左)少年倶楽部の付録の双六でしょうね。

(中)幼年倶楽部 新年号の付録、「あらわしすごろく」。

(右)国民四年生 新年号付録、空の若鷲双六。


(左)日本初国産エンジン 中島製 寿 570馬力


(右)陸上爆撃機 銀河 誉11型 11159。
彗星エンジンの熱田、液化倒立エンジン21型 21165。作業者泣かせのメンテナンスし辛いエンジンでした。性能的には良かったのに。

※液冷発動機
水冷発動機の水の換わりに沸点の高い液体を使用する発動機。水は大気圧力では沸点が摂氏100℃で、75℃以上になると水蒸気が発生し、これが一箇所に溜り、この部分が加熱して故障する。これを防止するために沸点の高い液体を用いる。
熱田航空機 熱田 V12気筒 1400馬力 水冷倒立 21165 彗星用。
 

熱田航空機 熱田 V12気筒 1400馬力 水冷倒立 21型 彗星用。
本日の戦利品、零戦の残骸(3,000円) 当時の零戦は住友金属考案の超々ジュラルミン熱処理材(略号ESD−T)と呼ばれた新軽合金(引張り強度約53〜58kg/mu)の押し出し成型材を使用した。零戦ファンには、こんなガラクタ破片でも僕には宝物となりますね。擦りすりしたい。(すれば顔が血だらけ間違いなし)


時間も14時頃だったので、富士スバルライン(往復1,600円)に行くことにした。
せっかくなので、各5合目まで順追って写真を撮りました。
(下中)2,020m、ここで月見うどん(500円)とコーヒー(150円)で空腹を満たす。
(中)5合目で、富士山を仰ぐ。

(右)下山中、4合目付近、眼下に雲を見下ろす気分は気持ちのいいものだ。

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