怒りの指数は? コントロール法は?(2) -なぜ腹が立つのか-

2012
2/7
火曜日

前回の「何故腹が立つのか」に続くシリーズ第三弾。

『いやな気分よ、さようなら』から怒りについてシーリーズで要約してみたい。

誰にでも怒りはあるもの、その辺りをどのように緩和するか、多分、恐らく、皆さんにも有益な部分はあるはずだから、参考になればと期待を込めて。

本シリーズはこのように分割したい。No2の続きから。

1. NOVACO怒りの評価尺度
2-1. なぜ腹が立つのか
2-2. なぜ腹が立つのか
3. 願望を実現させる手段にする
4. 気持ちを落ち着けよう
5. 想像法
6. ルールを書き直す
7. 狂った態度を受け入れる
8. 洗練された操縦法
9. 「すべき思考」を止めること
10. 交渉の戦術
11-1. 正確な感情移入
11-2. 正確な感情移入
12. 統合認知リハーサル
13. 自分の怒りについて知る事柄

〈増補改訂 第2版〉いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法
デビッド・D.バーンズ 山岡 功一 夏苅 郁子
David D. Burns 佐藤 美奈子 林 建郎 小池 梨花

4791102061

内容(「BOOK」データベースより)
認知療法の気分改善効果は、驚くべきものである。うつ病に対して、抗うつ薬と同等か、それ以上の治療効果があると証明された初めての精神療法、それが認知療法である。本書は、人生を明るく生き、憂うつな気分をなくすための認知療法と呼ばれる最新の科学的方法を示す。抑うつ気分を改善し、自分の気分をコントロールする方法を身につけるための最適の書。


二つ目の怒りの原因は「心の読みすぎ」である。相手がなぜそうしたのか自分が満足する説明を考えてしまう。しかし、相手は実際にそう考えているわけではない。感情に走るあまり、自分がどう考えているのかわからなくなってしまうことがありがち。他人を見て「筋が通っている」「インチキだ」「全くその通り」「ばかだ」「あいつらは子供だ」などと考えることがあるだろう。こんな説明は正しい情報に基づいていないことが多く、実際たいてい間違っている。


怒りを生ずる三つ目の歪は「拡大解釈」である。もし嫌なことを悪いほうばかりに考えれば悪感情はより強く、より肥大していく。たとえば大切な約束に間に合わせるよう遅れているバスを待っているとしよう。そんなとき「もう待てない」と思うだろう。でもそれはいささかオーバーではないだろうか? 実際バスを待てるのだし、待てないということはない。バスを待つことは不都合だが、そんなに不快に考えなくてもよいのである。そんな気がしないだろうか?


「すべき思考」が四つ目の怒りの原因。他人が同じように働いてくれないとき「そんなことをすべきでない」とか「すべきである」などと思うだろう。例えばホテルのフロントで予約したはずの部屋がとれていなかったと考えてみよう。思わず「そんなばかなことがあってたまるか」と考えてしまうだろう。

この場合何かを失うことで怒りが起こったのだろうか? 否、この体験は敗北感や失望、不自由感を生じさせるものである。腹が立つ前にこの状況を何らかの形で解決するはずでしょう。結局自分を正当化してそれによって腹が立っているのである。

どこで間違っているのだろうか? 係員がミスを犯すべきではないと思っていると余分なフラストレーションが溜まる。予約が取れていなかったのは不幸である。しかし、あなたを陥れようとしたとか、その係員が特別に無能だったとも考えにくいでしょう。でも係員は間違えたのである。もし完全さを求めれば、イライラし、動きがとれなくなってしまう。怒ることで部屋がとれるわけではないでしょう。怒るよりも、ほかのホテルに行くほうが楽ではないだろうか?

「すべき思考」は、あなたがいつでも満足できるという仮定に基づいて、自分の気に入らない場面でパニックに陥ったりする。それはあなたがあるものを手に入れることができないからである。(あるものとは恋愛であったり、感情、地位、尊敬、迅速さ、完全さ、心地よさであったりする) いつも自分が満足するような主張ばかりしていると、怒りの原因になり、結局自分の損になる。怒りっぽい人は自分の希望をこんなふうに言う。「もし自分を評価する人がいれば目の肥えた人だ」

人は自由な意思を持ち、あなたの気に入らないような考えや行動をとる。人をあなたの希望に従わせようと思っても思うようにはならない。むしろ、その反対のことの方が多いだろう。怒って人を自分に従わせようとすると人は遠ざかることが多く、あなたの思うようになることは少ないだろう。他人に支配されたい人はいないのだから、怒ることで問題は解決しない。

不正だと考えることこそ怒りの原因となる。実際、怒りは自分が不正に扱われたという認識と一対一に対応する感情である。これらから「絶対的な公正さ」などはない。「公正さ」は観測者にとって相対的なものである。ある人にとって公正に思えることも他の人には全く正しくないことなのである。一つの文化の中の社会規範や道徳ですら他の文化では受け入れられない。自分の道徳観こそが普遍的だと主張することはできるが、受け入れられないだろう。

「絶対的な公正さ」が存在しない代わりに道徳概念は重要で有効なものである。もし、他人の感情や関心を思いやらないと、遅かれ早かれ相手が利用されたことに気付いて、しっぺ返しを受けることになるだろう。

公正さの基準はどれだけの人が認めるかということ。ある人にとってユニークな行動も、他の人には風変わりに映ることがある。

日々の怒りの原因の多くは、自分の「希望」と「道徳基準」の混同にある。人に腹を立てて「正しくない」と言うとしよう。そんなときその人はあなたと違う価値基準の中で「正しく」行動しているのである。「正しくない」というあなたの物の見方は人に通用するものでなければならない。皆が同じように考えると都合が良いが、実際にはそういかないものである。それぞれが違うものである。このことを見過ごして人を「不正だ」となじれば、その人は侮辱されたと感じ、防衛的になるためあなたに偏見を持つだろう。

公正さとはあくまで相対的なものであるから、怒り自体にも誤りがあるわけである。相手が間違っていると説得しても、たいてはあなたの価値観とは違う価値観で行動しているに過ぎない。その相手にしてみれば、自分の価値基準では自分の行動は「公正」なのである。ならば、自分の好みでない行動でも認めなくてはいけない。なぜならそれは相手は相手で自分の価値観で行動しているからである。人を説き伏せることも、人の態度を変えることも、人のすることを自分の好みのように変えることもできる。しかし、自分に「あいつは間違っている」と言うのは、ときに錯覚に過ぎない場合もある。

怒りは不適切で相対的なものという理由で「公正」とか「道徳的」とかいう概念は無意味なものだろうか。

公明なウェイン・ダイアー「怒りの地帯(ニューヨーク、エーポンブック-1977-)」がこのように述べている。
『われわれは公正を求めるようにできている。それが見つからないと怒ったり、不安になる。実際、永遠の若さなど神話の探求と同じようなものだ。公正などいまだかつて、そして永遠に存在しない。駒鳥は虫を食べる。虫にとっても不公平ではない。自然界に公正さが存在していないことを示している。嵐や、洪水、大津波、かんばつなど全てが不公平だ。』

公正さが錯覚であるという論点に加えて、ダイアーは怒りには無意味であると言っている。

『怒りを生活の一部と受け入れなければならない。そして有効な目的もないことを悟らなければいけない。怒る必要はない。幸せになり、満ち足りるための何の意味もない。怒りのもつアイロニーは人を変えることはないということだ。』

この議論は認知のゆがみに基づいている。怒りには何の目的もないということは全か無か思考そのものである。何の役にも立たないということは一般化のしすぎ。実際には、怒りは特定の場面では有効なことがある。本当の問題は「怒りを感じるべきか、感じないべきか」なのではなく、「どこに線を引くか」である。

次の二つのガイドラインは怒りが生産的かどうか考え、それから何を学び、どう考えればより役立つかを示す。

1.この怒りは、必要もないのに、わざと悪意を示した人間に向けられているか?
2.この怒りは有効か? 自分の目的の役に立つのか、単に有害なのか?

以上の二つの基準を肝に銘じて、怒りを鎮める方法を次回以降に説明したい。






(2012/02/07 20:38)

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