江戸時代の行徳塩浜はどんなところ? 2011
11/26
土曜日

ブラタモリという番組がNHKで毎週木曜日に放映されている。
毎週、東京の特定のエリアに限定して江戸時代はどのようになっていたのか。
コンピュータグラフィックも駆使されながらも、ほのぼのとさせてくれる番組だと感心している。

過去があって現在がある。そして未来へと続く。
永劫に続く営みではないだろうか。
僕たちも祖先があって、今を生かされ、そして子孫へと繋いでいく。

風景や情景にも、時代や文化に翻弄されつつ、それらが反映されていく。

そこで、自分の住むご近所は、その昔はどのような姿だったのだろうか?
過去に想いを馳せてみるのも、なかなか洒落ているではないか。

R357の塩浜から、東西線の南行徳~行徳に挟まれたゾーンをブラタモ流に想像してみようか。

僕の住む街、行徳塩浜を抜けて湾にでる散歩道。
新居浜通りから50メートルも離れていない”あばら屋住み処”は、かつては塩田。

行徳界隈に居住する人たちには一入、江戸の時代が垣間見れるでしょう。
僕は時代作家の山本一力さん贔屓であるが、彼の作品にも時折『行徳』が登場する。
さあ、江戸時代にタイムスリップしてみよう。

『昔、むかし、行徳、塩浜というところは、こんな景色だったとさ!』




【京葉タイムズ 2011.11.6 『行徳歴史街道』鈴木和明氏】より
現在は塩田内に造成された江川では、塩田の周囲をぐるりと囲い込む潮回しという水路があった。幅6間(約10.8m)、塩田中央に掘られた水路は幅9尺(約2.7m)、共に深さ1尺5寸(45cm)程だった。これらとは別に、海から直接塩田地帯に入り込んだ幅30mほどもあるかつての海のミオ (※注1) といわれる自然の水路があった。


この自然の水路は、行徳では今は桜の名所になっている中江川とか、かつての湊?河(いが)といわれた船溜まりがあった千鳥橋付近から内陸に入り、行徳駅方面と伊勢宿方面に向かっていた水路、福栄4丁目の御猟場の側にあった。新田?河が伸びてきて行徳駅前公園横から伊勢宿を通り、本行徳4丁目まで船が入れた水路。南行徳では、南行徳2丁目と福栄との行政境にある高圧線が通っているラインで、これを昔は伝次郎ミオといった幅30m以上もある水路、今井橋から海岸へ向かう産業道路(区画整理で造成)脇にあった万年屋のミオなどがあった。


かつての江川は、区画整理のときにその殆どが道路になっていて、それは市道になっている。市道の脇に暗渠(あんきょ) (※注2) になっている幅1.5~2mほどのコンクリートのどぶ川が架かっている歩道があるが、それはちょっと幅の広い江川の跡で地権者へ川跡の土地を換地することができないために道路にしたのだった。場所によっては碁盤状の区画整理地に不自然に斜めにとおる道路ああるが、それは江戸時代からの大きなミオ跡であった。

このように、行徳は江戸時代に水路が発達した地域だった。江戸時代の後期の頃は、今の新居浜通り付近が塩田地帯であり、東西線の線路周辺は米作りのための農耕地となっていた。
元禄(1688~)以降の行徳は塩焼きと米作りの兼業の時代になっていた。


近世、行徳の産業は徳川幕府の政策によって塩焼き家業が唯一の産業になった。行徳を天領として押さえて、突貫応じで小名木川 (注3) を開通し、江戸城への塩を毎日運ばせたのは、全て「軍用第一」とする政策のためだった。
徳川幕府は、天正18年(1590)に江戸入りし、元和2年(1616)に没するが、その間の26年間、豊臣家を倒すために努力する。豊臣家は元和元年5月の大坂夏の陣で敗れて滅びている。


家康が没して13年、寛永6年(1629)、行徳の塩浜付き村々は16ケ村と確定され、江戸時代を通じて最高の塩浜年貢が決定された。この時の税率は「市川地史」によれば、15%ほどと計算できる。塩焼き家業はかなり保護されていたと言える。尚、寛永6年の検地(古検という)がされる前は10%ほどの税率だった。


江戸時代には行徳塩浜の位置づけは「軍用第一、御領地一番の宝」「塩焼きは江戸城中にあるものも同然の儀」ということであり、そのための「御軍御用要害の御手当て」として、塩浜開発手当金を下賜したのであった。
徳川家康三千両、秀忠二千両、家光千両、だあ、家康千両、秀忠三千両、家光二千両との説もある。(著者の鈴木和明氏は前説を唱えている) なお、八代将軍徳川吉宗は家康の故事に倣って御普請金千両を出費して塩浜堤防と入り堀(江川)の大改修を実施している。進言し実行を命じられたのは代官小宮埜之進であった。


また、江戸時代初期の行徳塩浜は、米作りのための農耕地は殆どなかった。米は買い喰いであった。稼ぎがあるまで百姓は金がなかった。そのため徳川幕府は塩焼家業の百姓に対して夫食(ふじき)等を無償で与えて保護した。夫食とは、農民の食料とする米殻の事を言い、米、粟、稗(ひえ)などをいう。



(※注1)
【澪】<みお>
1 浅い湖や遠浅の海岸の水底に、水の流れによってできる溝。河川の流れ込む所にできやすく、小型船が航行できる水路となる。また、港口などで海底を掘って船を通りやすくした水路。
2 船の通ったあとにできる跡。航跡。「遊覧船が―をひいてゆく」(goo辞典参照)



(※注2)暗渠(あんきょ)
地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路を【暗渠 あんきょ】という。『どぶ川』に蓋をして通路にしている場合が身近。



(※注3)小名木川(おなぎがわ)
1590年頃、徳川家康が小名木四郎兵衛に命令し開削させた運河である。現在の千葉県行徳で作られた塩や、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の米などを江戸に運ぶために掘られたもの。(ウィッキペディア参照)























(2011/11/26 12:04)


Copyright (C) 2011 Shougo Iwasa. All Rights Reserved.