本への執着と無頓着 2011
9/17
土曜日

毎日、日替わりで気分が揺れる。
 拒否への過敏
 指笑願望
 沈着冷静
批判的であったり、可笑しいことを探したり、意外にクールになったり、まさに『回復期の動揺』を突き進んでいる。

今日の話題は、思いつくまま本の『思念』と『断念』を抽象的に書こう。
何の本が読んでどうだったという話題ではない。

元々、僕は読書家というには烏滸がましく、通ぶる知識も持ち合わせていない。
小学生の時は幾ばくかの読書はしたが、継続して読み始めたのは90年代後半からだ。
ハイであれば年間80冊程度は読めるが、アンダーな時は数冊を読むのがやっとだ。

 「あなたが読書をする理由は何ですか?」
と問われれば
 第一に『暇つぶし』、これに尽きる。
 第二に『過去や未来に誘い、事実に感嘆し、思想に頷く・・・・』、しいていえばこの程度。

こんな執着心に囚われていた(いる)。
-過去形ではなく、進行形と言えなくもないのだが・・・-
”部屋の四囲を本に囲まれて過ごしたい”、という願望や妄想だ。
 たまには本棚から愛書を取り出して記憶を思い起こしたり、
 苦しい時にパラ読みしては自分と向き合えたり、ヒントをもらったり・・・

読んでもない本をインテリア的に、見栄を張るために飾るタイプではない。
皮で装幀された重厚な本であったりハードカバーの美術本の類がずらっと綺麗に
並んでいる様相が、外国のリビングルームなどで頻繁にお見受けする。
余計なお世話だが、あれらを住人は読破しているのだろうか。

僕は自分が読んだ本を並べたいのだ。
それも天井まで届く本棚にギッシリと詰め込みたい。

これを実現するために本棚を2つ自作した。

しかし、押し潰されそうなこの部屋で、本が増殖し続けても如何なものか。
次はどこに収めるつもりなのか、計画は立てているのか。
いつかは破綻を来すのは「自明の理」というやつだ。

そして地震の大揺れで本に押し潰されて死ぬリスクもある。
それってみっともなくはないですか?
『お亡くなりになったんですって、ご愁傷様です。ところで何故お亡くなりに?』
と肉親や知人が問われたら、
『実は本に押し潰されたんです、苦しむまもなく死ねたことが何よりの慰みで・・・』
僕は本望かもしれないが、周りには胸を張って言うにははばかれる。


これからはなるべくこうしようと考えている。
自分の本棚に納まらないものは売る。(現実はこうせざるを得ないのではあるが)
過去も数回段ボール売りで本を処分したことがある。
この8月には文庫本を79冊、単行本を30冊、bookoffへ売った。
2、3千円だったが本の一括買い取りはこんなものだろし、高価な本は一冊もないかのだから。

暇つぶしに読んだ本は、数年経つと愛着心も薄れるものである。
読み返したいという気持ちにもなれない。
これを繰り返すことで手元に残しておきたい本だけが残る。
(戒めとなる本、指針のような哲学本、ご贔屓作家の本、好きな写真集や解説本、など)
これはタンスの中の肥やしとなっている衣類を処分するのと原理は同じ。

モノに溢れた生活は決して幸せとは言えないかもしれない
モノが増殖するたびにどうやって収納しようか、と収納アイデア本が売れる。
自分のためではなく、モノのために生きているようなものだ。
取捨選択の判断基準は
 本当に必要か?
 今すぐ使うもなのか?
 滅多に使わないのではないか?
捨てるのはもったいないと皆さんが思う気持ちは、お察しできるし同情心もある。

「人生」は、大袈裟な言い方をするつもりはないが、
時には執着を捨て、無頓着になることも必要ではないだろうか

でも震災にあった方々はそういった考える間もなく全てを洗い流された。
痛み入ります。
 (2011/09/18 10:57)


Copyright (C) 2011 Shougo Iwasa. All Rights Reserved.