坂とお寺の”小石川”散策 2009
11/3
火曜日
文化の日

 午後から後楽園駅周辺をうろついた。ここの近辺には古いお寺や神社が点在し、江戸時代から歴史ある処だ。そしてまた、△△坂が多いところでもある。昨夜から急激に冬の到来を感じるけれど、日溜まりがあるとポカポカと体は温かい。お弁当を持ってふらっと出かけたんだ。

源覚寺
(げんかくじ)
こんにゃくえんま
 浄土宗  常光山  向西院  源覚寺 。寛永元年(1624)現在地に開創。眼病平癒の「こんにゃくえんま」として親しまれている。また、境内にある「塩地蔵」は歯痛緩和のお地蔵さんである。此処にある鐘は、昭和12年サイパン島「南洋寺」に寄進したが戦後所在不明になった。その後アメリカで発見され、昭和49年オークランド市から返還された。元禄三年の銘あり。
小石川七福神の一つである毘沙門天を祀る。
澤蔵司稲荷
(たくぞうすいなり)
 武蔵野の台地が小石川台となって神田方面に下る傾斜地。そこが小石川。山手と下町が坂をはさみ混在する街。夏目漱石、石川啄木、菊池寛、樋口一葉、永井荷風、林芙美子、志賀直哉さん達がそぞろ歩いた街。宮沢賢治さんや歌人・島木赤彦さんが住んでいた街。幸田露伴・文・青木玉さんのお宅は澤蔵司稲荷の隣。劇作家・円地文子さん、哲学者・ 井上哲次郎さん、作家・野間宏さんの旧居は澤蔵司稲荷がある同じ町内。古くは330年ほど前、芭蕉さんが神田上水工事にたずさわり澤蔵司稲荷の鎮守の杜を見て一句詠んだ街。徳川家ゆかりの傳通院を中心に神社仏閣がとけ込んでいる街。
傳通院
(でんつういん)
 今から約600年程前の応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉聖冏上人が開山したお寺。当時は小石川極楽水の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創された。それから約200年後の慶長7年(1602)、徳川家康公のご生母於大の方が逝去され、この寿経寺を菩提寺と定められ、於大の方の法名「傳通院殿」から「傳通院」と呼ばれるようになり、徳川家の庇護のもと大伽藍が整えられた。また。関東十八檀林の一つとして学僧の修行勉学の場となり、明治以後は淑徳女学校を設立し、檀信徒のみならず地元住民参加の新しい布教伝道方式による仏教活動を行い、教学の振興と共に社会事業も推進している。
石川山
善仁寺
 安和2年(969年)、真言宗寺院、福寿院として創建された。中世の東国においては阿弥陀如来をしのぐほど聖徳太子信仰がさかんであり、太子の伝記を絵解きにすることが良く行われた。 永正14年(1517年)に当寺で書写された奥書を持つ「聖徳太子伝絵」の写本が発見(慶応義塾大学 三田メディアセンター所蔵)されるに至って、善仁寺周辺の小石川界隈には戦国時代初期まで古風な太子信仰を保った真言門徒がいたことが判明した。 この本は後に相模の真言宗の学問寺であった金子西明寺(神奈川県大井町)の蔵書となった。
新福寺  浄土真宗となっている。
善光寺坂
(ぜんこうじ)
 坂の登り口に善光寺があり、坂の途中には沢蔵司が宿っているという言い伝えを持つ椋の老樹が道の真ん中に残されている。
三百坂
(さんびゃく)
 松平豊後守の屋敷があり、家来が行列に遅れると三百文の罰金が課せられたことに由来する。
六角坂
(ろっかく)
 江戸幕府の高家、六角氏の屋敷があった。
吹上坂
(ふきあげ)
 坂下の宗慶寺境内に「吹上水」と呼ばれる湧き水があった。
御殿坂
(ごてん)
写真無し 五代将軍綱吉が館林藩主のとき、白山御殿を建てた。

 吹上坂を過ぎると、直ぐ先に見えるのが『東京大学大学院理学系研究科附属植物園(小石川植物園として親しまれている)』だ。広い園内には数千種の国内外の植物が植えられている。それもまた、樹齢が半端じゃない。優に100年越えの老樹があちらこちらにあって、これまた圧巻で都内にこれほどの森が作られ、そして残されていることに感動したよ。”約320年前の貞享元年(1684)に、将軍職に就く前の徳川綱吉の白山御殿の跡地に徳川幕府が作った「小石川御薬園」がこの植物園の遠い前身”(小石川植物園概要より抜粋)とのこと、道理で歴史があって威厳があるんだよね。


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