宇宙飛行士が船外活動で「運がいい場合」
<後半>
2008
12/23
火曜日

  さあ、前回の続き、命綱は、ハッチの外に、長さ約17メートルの細い鋼鉄のケーブルで繋がっている。永遠の闇に吸い込まれないように繋ぎとめているのは、たった1本のケーブルだけ。一本のケーブルが宇宙飛行士と世界を繋いでいる。前回の<前半>の続き、どう?真に迫るものがあるよね。これはまだ序の口だけどね。

 突然、自分の体から生命力が失われていくのを感じる。長い空の旅が終わろうとしているときのような疲労感に襲われる。自分ではわからないだろうが、唇は青くなり、詰めも青くなりはじめる。それから、目がよく見えなくなる。視野がぼやけるのかもしれない、沈む太陽が二つに見えるかもしれない、あるいは、遠く、または近くの一点にしか焦点が合わなくなるかもしれない。ヘルメットの中を漂う一滴の汗、太陽電池パネルに反射する光、キューバからプエルトリコへと流れてゆく白い雲。

 最初に頭痛の波がやってくる。脳が酸素を吸収せよと最後の命令を叫んでいる。筋肉を強く押されたときのような痛み。頭痛が去ると、今度はめまい、意識混濁、吐き気などに見舞われるが、これらの不快な症状はやがて消失する。そうこうするうち、自分がなぜ汗をかいているのか忘れている。すべては映画の一場面のように見えてくる。まるで他人の悪夢を見ているようだ。ステーションまでの距離などまったく問題ではない。泳いでいって、ハッチの中に戻り、寝袋に潜り込むこともできそうだ。こんなに疲れていなければ、自分がそうしたいと望むだけで、できるような気がする。ほんとうにそうしたいと思うだけで・・・・・ ここでまた訓練の成果があらわれ、夢想を振り払おうとするのかもしれない。しかし、そんな最後の奮闘も集中力の低下とともに終わりを迎える。
 

 脳には自己を救済するための思いやりにとんだシステムが遺伝子に組み込まれている。つまり、脳が先に逝ってしまうのだ。手足の痛み、喉の渇き、腕や足や胸の筋肉の小さく不規則な痙攣などはまだ感じられるが、ほとんど意識は消失し、現実は快感に取って代わられている。死が近づくと、脳波幸福感で満たされる。天界へ送り出すための最後の至福の一押しだ。

 これまでの人生が幻覚となって、つぎつぎによみがえる。見え、聞こえ、手で触れられるほど真に迫っている。そしてついに酸素が尽きる。突然、幻覚は消え、真っ暗闇になる。目はまだ開いているし、体はこわばっている。しかし脳は既に完全に機能を停止し、他の臓器があとに続くのをじっと待っている。臓器は一つ、また一つとその仕事を終えて、町を出て行く行列に合流する。腎臓、肝臓、膵臓、脾臓、肺、そして最後に心臓。それですべてが終わる。それが宇宙飛行士の死だ。もがき苦しむこともなく溺れ死ぬようなものだ。溺死なのに、体内には水に満たされることなく、からっぽのままだ。

 しかし、これは「運のいい場合」である。(・・・続く

Copyright (C) 2008 Shougo Iwasa. All Rights Reserved.