2008年9月11日(木) 
 『武士道』-仁・義・礼・智・信-その6
義ー武士道の礎石ー

 暑さも少しばかり和らいだようでもあるし、朝方は多少涼しいけれど、帰宅時は何故かむしっとしますよね。

 明日の朝から、お客様への報告事項があって、僕って段取りが悪いのかな、弊社内コメントをもらって修正して、必要部数を準備していたら、帰宅が午前様になってしまった。

 今日から読み始めた「だいこん/山本一力」、彼の作品は3作目なので作者買いしてしまったのだけれど、一気に読者を蟻地獄へ吸い寄せるような引きずり込むパワーがあるね、まだ、1/6読んだだけなので、これからの展開に手に汗握るね。
光文社/629ページ
  北海道準備は特にこれといってしていないのだけれど、テキトーに少しだけバックに荷物を詰めた。

 明日は、娘と会うのが楽しみだ。

 来週は祝日もあるけれど、休暇を頂くので、少しだけ心苦しいね。(誰も本音でそう思っているのか、どうか甚だアサシイゾ)
 さて、一連『武士道』編、<その1><その2><その3><その4><その5>の続編、<その6>どこまで続くのやら・・


■義は人の道なり
 「義」は、武士道の中で、もっとも厳格な徳目である。サムライにとって卑怯なる行動、不正な振る舞いほど忌まわしいものはない。

 「義は自分の身の処し方を道理に従ってためらわず決断する力である。死すべきときには死に、討つべきときには討つことである」と語っている。

 真木和泉という武士は、「武士の重んずるところは節義である。節義とは人の体にたとえれば骨に当たる。骨がなければ首も正しく上に載ってはいられない。手も動かず、足も立たない。だから人は才能や学問があったとしても、節義がなければ武士ではない。節義さえあれば社交の才など取るに足らないものだ」とも述べている。

 節義とは、’節操と道義。人としての正しい道を踏み行うこと。「―を重んじる」’といった意味ですね。

 「仁は人の良心なり、義は人の道なり」といった孟子が、その「仁と「義」が廃れた世の中を見て嘆き、こういったという。「その道を捨てて顧みず、その心をなくしても求めようとしない。哀しいかな。鶏や鳥がいなくなっても探すことは出来るが、心をなくしては探しようがない」と。
 どう、そうだけれど、実際、日々の中でどうなんだ、なんてあまり真摯に考えることはないよね。どうです、皆さん?


■「正義の道理」が私たちに命ずる
 義からの派生語として呼べるものに「義理」がある。文字通りの意味は「正義の道理」であって、それは次第に世論が定めた果たすべき義務と、世論が期待する個人的義務感を意味するようになってしまった。

 元々は、あくまで単純な義務を指していた。したがって、私たちが親や目上の者、あるいは社会一般などに負う義務について話すときは、義理はいつのまにか義務のことになった。なぜなら、義務とは「正義の道理」が要求し命じる以外の何物でもないからであって、「正義の道理」こそは無条件に従うべき絶対命令だと言ってますね。

 うーーーん、ちょっと話が堅いね。加速的にヘヴィーに言うと、「人は偶然生まれた情実によって階級社会をつくり、その社会的単位は家族である。そこでは才能の優劣により年齢が重視される。いわば義理は、自然的な愛情が人間のつくった恣意的な習慣にしばしば屈服させられるよな、そんな社会的条件の中にあるからである」

 何言ってるか、さっぱりですかね。ちゃんと『武士道』を読むと流れがイメージ出来るのですけどね、ピックアップした文章じゃ、魂がこもってませんね。
 
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