ミニ・クーパーの誕生秘話(シリーズ) 2013
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土曜日

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最近、ご無沙汰していたMINIシリーズ。前回の続きから、語ろう。

前々回は、ジョン・クーパーという人が、ツーリングカーレース用に、ミニを使ってレースに出したいと考えた。しかし、レースには、メーカー量産車でなければダメという規制があった。そこで、ジョン・クーパーは、ミニの生みの親、イシゴニスのところへ行ったまではよかったが・・・

イシゴニスは容易にジョン・クーパーの願い出を聞き入れなかった。イシゴニスにすれば、現状の850ccでコンプリートであって、「ミニをこれ以上速くする意味もないだろう」とクーパーをいなし続けた。イシゴニスは頑固なエンジニアだったのだ。(中略) ハリマンBMC会長「そこまで言うならミニを一台提供するから、近日中に試作車をつくって見せなさい」

クーパーはハリマン会長と掛け合い、レース規定の量産車最小の1,000台のミリテッドモデルを作ることになり、高性能版クーパーがデビューした。

さて、そのリミッテッドモデルの売れ行きは?
ジョン・クーパーの話では、「一週間」だったという。いささか誇張されたような日数だが、ミニ・クーパーは注文が殺到し、驚く早さで1,000台が完売したのだった。BMCはすぐに限定生産計画を変更。慌てて量産体制に移行した。

おもしろいことに、ミニ・クーパーが登場するとミニが最初から備えていた路面追従性や操縦安定性が再認識された。ディスクブレーキを装着した以外は基本敵に何も変わっていないのに、人々はミニ・クーパーのサスペンションを賞賛したのだった。デビューから2年、ようやく世間はミニのすばらしさに気付いたのだった。

ミニ・クーパーの登場は、ミニ全体に好影響をもたらした。人々はミニに再注目し、優れた車のひとつと考えるようになった。それはセールスにも直結した。ミニが発売された1959年の生産台数は2万台弱、翌1960年が約117,000台、続く1961年は約157,000台だった。だが、ミニ・クーパーがレギュラー化した1962年には一気に216,000台へ伸び、同年の終わりには累計50万台を突破した。

さて、どうなるのか、続きは次回に。


(出典):ミニ・フリークの日々(田村一七男著)  :MINI THE COMPLETE ILLUSTRATIONS(尾崎豪著)


(2013/02/02)



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