日本陸海軍機大百科、夜間戦闘機『月光』一一型[J1N1-S] 2012
12/6
水曜日



日本陸海軍、第79弾は、日本本土上空で強敵B-29に挑んだ海軍夜間戦闘機の嚆矢、『月光一一型』を紹介します。


当初、”素人考えのにわか武器”と陰口を叩かれていた「斜め銃」が、ソロモン戦域で予想もしない威力を発揮し、劇的に誕生したのが夜間戦闘機「月光」であった。しかし、ソロモン戦域での活動は僅か数ヶ月の短期間で終わり、その後、1年近くの間、月光の夜戦としての見せ場はほとんどなかった。それが一転したのは、アメリカ陸軍航空軍のB-29超重爆による日本本土への本格的空襲、それも首都東京周辺への夜間爆撃が始まった昭和20(1945)年3月以降のことだった。ここでは、斜め銃装備要領、ソロモン航空戦以降の戦歴などを中心に紹介する。



■夜戦「月光」誕生の前後談

夜戦「月光」にとって存在価値そのものと言ってもよかった「斜め銃」は、機体の軸戦(中心線)に沿って装備すると言う、いわば固定射撃兵装の常識から外れたキワモノ的な変則武器であった。

これは、操縦者にとって弾道の見極めが付けにくいうえに、照準機との照準を感覚的に把握するのも難しいからであった。

ただ、発案者の二五一空司小園安名(こぞのやすな)中佐は、自身がもともと戦闘機操縦者だったので、その経験から彼なりの成算を持っていた。だからこそ、周囲の猛反対を押し切り、司令官の最良で半ば強引に二式陸上偵察機への改造装備を命じたのだった。

その狙いは二五一空のソロモン戦域再進出直後に適中し、わずか数機の二式陸偵改造夜戦が、昭和18(1943)年5月21日夜のB-17 2機撃墜を皮切りに、7月末までの約2ヶ月の間に、B-17、B-24両四発重爆を中心に十数機撃墜という驚異的な戦果を報じた。

この信じられぬような成果に、当時は”小園の道楽”と言わんばかりに批判していた海軍航空本部も、二式陸上偵察機改造野戦の兵器としての価値を認めざるを得なくなり、翼8月23日付けで、夜間戦闘機「月光」一一型の名称により制式採用するに至ったのだった。

同時に、限定的生産にとどめていた二式陸上偵察機のメーカー、中島飛行機に対して、野戦「月光」としての量産が改めて命じられたのはいうまでもなかった。何かと”日陰の者”としての存在に甘んじていた二式陸上偵察機は、文字通り一夜にして脚光を浴びる新機種へと転進した。


■必殺武器「斜め銃」の装備要領

月光の斜め銃に使用されたのは、零戦が左右主翼内に装備していたのと同じ九九式二号20mm固定機銃三型だった。ドラム弾倉式で、携行弾数は1銃につき100発だった。

これを旧電信席跡に、前上方および前下方に30度の仰角をつけて、各2挺ずつ計4挺を固定した。

照準は、前上方指向銃については操縦席前部固定風防内の上部に取り付けた三式小型照準機を、前下方指向銃については同照準機のすぐ下に零戦と同じ九八式射爆照準機を、上下逆さにしてそれぞれ用いた。前下方指向銃の照準と外界視認用の窓が、機種下面に前後に並んで設けてあり、操縦者は座席に座った姿勢の両足の間から前下方の視界も得ていた。

もっとも、敵機の後上方に占位して射撃する前下方指向銃は、いかに夜間とはいえ敵機の防御銃座に狙われやすくそのポジションに占位するまでの接敵行動も難しいと言うこともあり、使用機会は少なく、後に廃止されてしまった。

因みに、月光一一型の取扱説明書によれば、上方指向銃に限っては九七式7.7mm機銃に換装できることになっていた。これは、射撃訓練の際に降下な20mm機銃弾を使うのはもったいないための措置だった。


■洋上哨戒、攻撃機としての運用

昭和18(1943)年空、ソロモン戦域で勢力拡大を続けるアメリカ軍航空部隊は攻撃を一段と強め、それと同時に日本軍支配地区への夜間空襲を控え、もっぱら昼間の戦爆連合編隊による空襲へとシフトしてきた。

これは、日本海軍戦闘機隊、特にゼロ戦による迎撃を受けて生じる損害も、勢力拡大による”敵の力”を防げる、と言う判断に基づいたものだった。

敵機の夜間来襲が少なくなれば、当然、月光の働き場もなくなるわけで、夜戦としては、”開店休業”のような状態になってしまった。

二五一空によるソロモン戦域での成果のあと、海軍は夜戦専任部隊の新編成を進め、昭和18(1943)年10月1日には、その最初の部隊として第三二一空や三八一空、二〇三空などにも月光を装備する「乙戦」※を1個分隊(定数12機)ずつ隷属させるようにしていた。

しかし、これら乙戦対の月光は夜戦としての働きがほとんどなく、前述の三二一空も、昭和19(1944)年2月下旬以降逐次進出したマリアナ諸島方面では、専ら周辺海域の対潜哨戒、敵艦船群、地上目標に対する銃爆撃などを日常任務とした。

こうした状況に沿って、月光に装備されるようになったのが、対水上艦船探知用の、通称「H-6」機上レーダー(制式には三式空六号無線電信機と称した)で、三二一空機の一部にも機首先端、後部胴体両側に送受信用のアンテナが取り付けられた。


■活動の主部隊は日本本土へ

昭和19(1944)年6月15日深夜、中国大陸奥地を発信したB-29が、北九州の八幡製鉄所を目標にしてはじめての日本本土空襲を行ったのをきっかけに、日本陸海軍の航空行政は一変し、本土防空兵力の増強とB-29を迎撃できる高性能戦闘機の早期実用化を最優先にせざるを得なくなった。

前述の北九州防空戦では陸軍の二式複戦が夜戦として検討し、海軍の斜め銃に倣った「上向き砲」(12.7mmX2、のち20mmX2に強化)と機首の大口径37mm砲の威力を示して、予想以上の戦果を挙げた。

海軍もB-29の日本本土来襲を予期し、昭和19(1944)年3月に首都防空を担当する最初の専任部隊を新編成し、乙戦の「雷電」とともに丙戦「月光」を主力装備機に指定、その実戦体制完備に努力している最中だった。

北九州空襲のあと、8月には中部地区防空のための第三三二、九州地区防空のための三五二海軍航空隊を新編成し、両隊にも定数12機の月光分隊を1個配備して、B-29のさらなる本土空襲激化に備えたのだった。


■首都夜間防空戦での凱歌、そして終局

しかし、昭和19(1944)年11月下旬にマリアナ諸島から首都東京周辺を目標にした空襲が始まってからも、B-29の戦術は昼間高々度からの爆撃を専らとしていて、月光の出番はなかなか巡ってこなかった。

ようやく迎撃の機会が巡ってきたのは、昭和20(1945)年3月10日の有名な東京大空襲、すなわち夜間に低高度(1,5m~3,000m)から一般市街地を目標にする、いわゆる「無差別爆撃」が行われるようになってからだった。

首都圏周辺では探照灯(サーチライト)部隊が比較的密に配置されていたこともあって、三〇二空、さらには横須賀空乙戦隊の月光は、B-29の後下方に容易に占位できた。そして、並行に飛びながら、前上方指向の斜め銃で、B-29の数少ない命中効果箇所である主翼付け根付近を狙い、必殺の射弾を送り込んだ。

その結果、三〇二空の”B-29撃墜王”と呼ばれた遠藤幸男大尉をはじめ、何人かのB-29撃墜記録保持者を擁した。

それらのB-29キラーの中で、最も顕著な功績を示したのは、横須賀空乙戦隊の倉本十三上飛曹(操縦)/黒鳥四朗少尉(偵察)ペアであった。彼らは5月25日深夜から26日未明にかけて東京を目標に来襲したB-29を迎撃、1回の出撃でB-29を5機撃墜という離れ業を演じ、横須賀鎮守指令長官より異例の全軍布告表彰の栄誉に浴した。

しかし、この夜を境に、アメリカ軍は再び昼間空襲に戦術を転換したため、月光隊の出番はなくなり、そのまま為す術なく敗戦の日を迎えたのだった。敗戦時点においては、三〇二空の月光隊は爆弾を懸吊して、本土上陸作戦支援を行うであろう、アメリカ海軍艦船群に対して、体当たり特別攻撃も辞さぬ出撃態勢に入っていた。


次回は、キ102乙襲撃機i[キ102乙]をご紹介します。



※サイト:日本陸海軍機大百科


(2012/12/05 21:42)



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