日本陸海軍機大百科、零式観測機一一型[F1M2] 2012
9/10
月曜日



日本陸海軍機大百科、第75弾は、本来の観測機としての働きがなく、二座水偵として重宝された日本海軍の『零式観測機一一型』を紹介しましょう。


主力艦(戦艦)同士による砲撃戦に際し、味方艦の着弾状況を観測するための専用機として、日本海軍が唯一調達したのが零式観測機だった。しかし、太平洋戦争は航空戦のいかんで勝敗が決する戦いとなり、零式観測機に本来の働きは巡ってこず、実質的には二座水偵としての運用に終始した。零式観測機にとって本務であるはずだった、弾着観測がいかようなものであったかを中心に解説する。


■主力艦への航空機搭載

弾着観測任務がいななるものであったかを記述する前に、まず、水上偵察機、および零式観測機が主力艦にどのように配備されていたか?

「大和」級(姉妹艦は「武蔵」)を除き、太平洋戦争に臨んだほかの10隻のいずれもが、艦齢が古いせいもあって、その航空機(二座および三座水偵)搭載施設は途中で改装することによって設けたものだった。

従って、スペース的な制約もあり、艦体後部に射出機(カタパルト)を1基だけ備え、その周囲の甲板上の空スペースに二座水偵2~3機、三座水偵1機程度を露天繋止するという方法が採られた。

アメリカ海軍の場合は、「VO」の接頭記号を冠する、定数が9機の観測飛行隊をいくつか編成。3隻で構成された1個戦艦戦隊に1個飛行隊を割り当てるシステムを採っていた。

しかし、日本海軍の場合、それぞれの艦が固有の「飛行科」を持って、これら搭載機を帰属させるというシステムだった。

10隻の中で、艦齢が最も古い「金剛」級を例にすれば、昭和12(1937)年~15(1940)年頃は二座水偵3機、三座水偵1機という陣容で、飛行科は搭乗員が飛行長を含めて約15名、整備員が約20名という構成だった。


■太平洋戦争中の搭載機数

しかし、こうした主力艦同士の砲撃戦に備えた陣容も、太平洋戦争が前述したような状況で推移するにつれて水偵、観測機そのものの必要性が減少したために、各戦艦とも三座水偵の搭載をやめ、二座水偵、もしくは零式観測機2機だけにする例も多かった。当然、飛行科の構成人員もその分減少したはずだった。

戦艦「大和」級は、その巨大さと、46cm主砲の発射時の強烈な爆風から搭載機を守るために、艦体後部の航空施設スペースの甲板下に、6機分の零式観測機を収容できる広い格納庫を備えていた。しかも、日本の戦艦としては唯一高性能の射出機を左右舷側に各1基ずつ備えており、航空兵装はかなり充実していた。

しかし、これほど”贅沢”な装備を持ちながら、大和、武蔵の両艦とも、太平洋戦争中は、ほとんど零式観測機2機だけという搭載定数に終始し、それをフルに利用する機会がないままに戦没した。


■弾着観測任務の実際

射撃レーダーも赤外線暗視装置も存在しなかった第二次大戦以前には、戦艦が主砲射撃する際に照準の柱としたのは、「測距儀」と称した光学式照準機だった。

しかし、当時の各列強国海軍の戦艦が備えていた口径30~40cmクラスの主砲は、その射程(砲弾の届く距離)が30kmを上回り、世界最大口径の46cm主砲を持つ、日本海軍の大和級では40kmにも達した。

これほどの遠距離ともなれば、目標である敵艦船は、水平線上に全く姿が見えず、艦橋やマストの上部くらいを測距儀で捉え照準せざるを得なかった。

しかも、天候が比較的に良くても、靄などがかかれば、視程(測距儀で視認できる距離)が低下して、自ら撃った砲弾の命中精度の良し悪しも判然しなくなる。

このような場合に備える手段として、弾着観測任務があった。


■原則的には複数機で任務にあたる

水上母艦搭載の三座水偵や、飛行艇などの長距離を探索できる航空機などから、敵艦隊の位置を把握し、砲撃戦の準備が下令されると、各戦艦に搭載された零式観測機は、ただちに射出機から射ち出されて、敵艦隊とほぼ中間地点の上空に向かう。

弾着観測に適した高度は、なるべく視野を広くする必要もあって、7,000メートルとかなり高い。零式観測機に限らず、日本海軍の水上偵察機は、三座の零式水偵を除き、全てが開放風防、すなわち、吹き曝しの乗員席であった。

もちろん7,000mでは酸素濃度が低く、酸素マスクを使用しないと飛行できない。しかも、冬期ともなれば、外気温は氷点下20~30度という極寒になるので、電熱飛行服の着用が必須であった。

射程が30km以上にもなると、発射された主砲の砲弾は、8,000m程度の高さを飛翔するので、観測機も、その射線から外れた空域で待機しないと危険であった。


■外敵に備える2、3番機

やがて、自艦からの無線により、射撃開始の連絡が入ると、操縦員、偵察員ともに、目標周辺の海面に目を凝らし、その初弾の弾着状況を確認した。

最初から命中することなどは、まずあり得ないので、零式観測機の乗員は、初弾の弾着状況を、すぐに母艦に無電報告し、誤差修正を促すのだった。その誤差修正の報告は、100m単位で表し、距離の誤差は「遠3」(300m遠過ぎの意)、「近2」(200m近過ぎの意)「左へ5」(左に500mずれているの意)、「右へ4」(右に400mずれているの意)という具合に知らせたのだった。

むろん、実戦ともなれば、敵方の観測機も同様の任務を行い、場合によては、随伴の空母搭載戦闘機が、これらの観測任務を妨害する可能性も充分考えられた。

そのため、弾着観測任務は1隻の戦艦に搭載される2~3機が一組になって実施するのが原則とされ、最も技量に優れた搭乗員が1番機に配置されて弾着観測に専念した。

もし、その最中に敵機が妨害に出てきたときには、周囲で警戒にあたっていた2、3番機が、これに空戦を挑んで阻止するという手はずになっていた。


■偵察員の判断力が重要

こうした零式観測機の弾着観測は、操縦員もむろん補佐はするが、専任は後席に座る偵察員であった。2、3番機の防御行動をかいくぐって、敵機が襲ってくれば1番機もそれを回避するために、急旋回などをして対処した。このときの体にG(重力)がかかった状態でも、無電報告の電鍵が叩けるように、偵察員は日頃から猛特訓で鍛えていた。

砲撃戦が始まって、至近弾があると、敵艦も次の斉射による命中弾を回避するために、艦を不規則に進路変更した。

観測機の偵察員には、この敵艦の回避行動の進路も、ある程度先読みして、報告する能力が求められた。

主力艦同士の砲撃戦ともなれば、複数以上の艦が相対するわけで、観測機も自分の母艦の弾着を、僚艦のそれと確実に区別できなければならない。

その手段として用いられたのが「着色弾」であった。あらかじめ、各艦に赤や黄、青といった、砲弾の色あてが定めてあり、弾着の水柱が立ったときに、その水柱の色で自分の母艦の弾着を見極めた。


■弾着観測の機会は巡ってこず

こうして、日本海軍が長年にわたって積み上げてきた弾着観測のノウハウは、おそらく太平洋戦争開戦の時点においては、列強国海軍の中では最もレベルが高かったと思われる。

もし、戦艦「大和」級を筆頭にした日本海軍戦艦部隊が、太平洋正面でアメリカ海軍の戦艦部隊と雌雄を決する砲撃戦を交えたと仮定すれば、相応の優勢は示せたであろう。

そして、その弾着観測を一手に担って、命中率の向上に寄与した零式観測機も、一躍、その名を全世界に轟かせたに違いない。

しかし、それも太平洋戦争の現実の前に、儚い夢となって消えてしまった。

ひとつの用途に特化した機体ほど、あてが外れたときの”つぶし”が利かないのが定石であるが、零式観測機は、高い飛行性能と実用性の良さが幸いして、二座水上偵察機としても充分に使えた。

とくに、複葉形態から生まれた無類の運動性能には、水上戦闘機に匹敵する価値があった。緒戦期の南方侵攻作戦や、ソロモン諸島を巡る攻防戦の前半期に、各水上機母艦の搭載機が少なからぬ敵機撃墜戦果を挙げたことは、その何よりの証拠であった。




次回は、機上作業練習機『白菊』二一型をご紹介します。



※サイト:日本陸海軍機大百科


(2012/09/10 22:21)



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