日本陸海軍機大百科、キ87試作近距離戦闘機[キ87] 2012
8/30
木曜日



日本陸海軍機大百科、第74弾は、陸軍戦闘機メーカーの盟主、中島が手がけた最後の高々度防空戦闘機『キ87試作近距離戦闘機』を紹介します。

立川キ94試作高々度戦闘機[キ94]と同様、キ87もまた、対B-29迎撃を主眼に開発された、排気タービン過給器装備の高々度戦闘機であった。しかし、キ94の最初の設計案だった串形双発携帯の失敗とはまた別の意味で、キ87も、陸軍戦闘機メーカーの盟主を自負していた中島飛行機の設計にしては、やや精彩を欠く失敗作となった。その原因を突き詰めていくと、結局、日本の国力、航空技術力の限界を超えた、手に余る高度な機体だったということになる。










■戦闘機に排気タービン過給器を・・・・

昭和18(1943)年6月24日、陸軍航空本部が中島と立川に対し、それぞれキ87、キ94の試作番号により高々度戦闘機の開発を命じたとき、その主たる迎撃目標にしたのは、もちろん、アメリカ陸軍航空軍のボーイングB-29四発大型爆撃機であった。

本機は、アメリカ陸軍機の独壇場とも言えた排気タービン過給器を備えており、高度1万メートル付近を悠々と巡航飛行できた。しかも、当時の四発大型機にしては破格の値といえる、570km/hの最高速度を誇った。

こうしたB-29の驚異的ともいえる性能の概略が明らかになったとき、日本陸軍がどれほど大きな衝撃を受けたかは察してあまる。

昭和18(1943)年前半期において、日本陸軍が防空任務に就かせていた二式(単座)戦闘機二型「鐘軌道(しょうき)」は、高々度5,000メートル付近なら、B-29に対し、優速の600km/hを出せた。しかし、それ以上の高度になると、排気タービンなどを装備していないため、性能が急低下し、B-29が常用する7,000~9,000メートル付近では、まともな空中戦機動などできない、ただ浮いている感じに等しい状態になってしまっていた。

この頃に実用化に漕ぎ着けた新型のキ61(後の三式戦闘機「飛燕」)も、速度性能は二式戦に比べて少し低いうえ、高々度性能についても大した差はなかった。

つまり、日本陸軍が保有する現用戦闘機のうち、B-29の高々度来襲に対処できるものは皆無、という現実が突きつけれれたのだった。

航空本部が何を於いても、排気タービン過給器を備える高性能の防空戦闘機を早急に開発しなければならぬ、と決意したのも当然であろう。その結果がキ87、キ94の同時試作発注だった。


■困難な排気タービン開発

しかし、まともな実験機すら作ったことのない日本メーカーが、いきなり排気タービン過給器装備の戦闘機を試作して、早急に実用機に仕立て上げるというのは、あまりに無謀な話だった。

そもそも、先駆者であるアメリカ陸軍航空隊でさえ、本格的な研究を始めてから最初の制式戦闘機が配備されるまでは十数年を要しており、生易しいものではなかった。

日本メーカーの三菱、日立、石川島の各メーカーが、スイスから輸入した排気タービン過給器を参考にして研究開発に乗り出したのは、昭和13(1938)年頃だと言われている。

しかし、排気ガスの非常な高度に晒されるタービン部品の製作に不可欠な、耐熱金属の原材料であるニッケル、タングステンなどの鉱物資源を産出する鉱脈など日本にはなく、輸入で賄うにしても真に安定した品質、量を維持できる保証はなかった。

故に、三菱、日立、石川島、3社の排気タービン過給器の試作品は、昭和16(1941)年~17(1942)年頃にかけて、相次いで完成はしたものの、到底、すぐに実用化として使えるようなシロモノではなかった。

このような現状により、キ87、キ94の試作発注は、排気タービン過給器が将来的に実用化するであろうという、いわば陸軍航空本部の希望的前提に基づくものであり、大きなリスクを抱えての決断だったと言えた。


■中島飛行機の設計部編成

三菱と並び、日本の航空機/発動機メーカーの双璧といわれた中島は、その設計部の編成に関し、三菱とは全く対照的な制度を採っていた。

三菱の場合は、零戦なら堀越二郎技師、一式陸攻なら本庄季郎技師という具合に、各機体の開発については、必ず「設計主務者」というポストに一人を配し、その直列の指揮下のメンバーで全てを受け持つ、いわば縦割りのプロジェクトだった。

これに対し、中島はひとつの設計課に動力、空力、重量、艤装、脚/油圧、電機、強度試験、模型(木型)の、それぞれの分野の専門チームを配し、機体のいかんを問わずに受注機を順送りにして、作業をこなし、それを設計課長が統轄するというプロジェクトスタイルを採っていた。

従って、一式戦、二式戦、四式戦と続いた中島の歴代制式戦闘機は、誰の設計によるかという問いに対しても、特定個人名は出てこないのであった。

キ87の試作に当たっては、第一設計部の第一設計課が基礎設計を担当し、渋谷巌技師が各専門チームを統轄した。


■自社製の最大[出力]発動機を搭載

キ87は、排気タービン過給器もさることながら、B-29に対し絶対的な性能上の優位を確保するという見地からも、当時、中島の発動機部門が開発着手したばかりの「ハ二一九ル」空冷星型複列18気筒発動機を搭載することに決定した。

「ハ二一九ル」は、中島製空冷星型発動機の基礎を確立したといわれてもよい、「ハ一」(海軍名称は「寿」)系9気筒(600-700hp)を複列化したものであった。

シリンダーの内径X行程は146X160mmと比較的小さく、総容積は48.2L、外形も1,280mmとコンパクトにまとめられたが、その割には出力は大きく、離昇出力は当時の日本発動機としては最大の、2,450hpにも達する計画だった。


■大直径4翅プロペラ

これだけの大出力を効率よく推進力に転換するには、相応の大直径4翅プロペラが必要だった。海軍の場合は、主要機種のほとんどで、プロペラ製造専門メーカーの住友金属工業が国産化していたアメリカのハミルトン系か、ドイツのVDM系のいずれかを用いた。

しかし、陸軍では海軍への面子上の思惑もあってか、当時、実用化を進めていた中島のキ84(後の四式戦闘機「疾風(はやて)」には、フランスのラチエ社製電気式可変ピッチ構造を有する4翅プロペラの国産化品を使っていた。

このプロペラは、日本国際航空工業が国産化、および生産を担当したのだが、精緻を極めた電機式可変ピッチの機構がオリジナルどおりに作れず、故障、不調を頻発して、のちに実戦投入された四式戦の評価を著しく貶める要因のひとつになってしまった。

だが、キ87の試作が始まった頃には、そうした兆候はまだ出ておらず、陸軍も中島も迷いなくこのプロペラの採用を決めたと思われる。

四式戦のラチエ4翅プロペラの設計に当たっては、2,000hp級発動機には全く不釣合いな、直径わずか3.05メートルの極小値に設計するミスを犯した。その反省もあって、キ87の4翅プロペラは直径3.90mに設定されたのだが、アメリカ陸海軍おお2,000hp級単発戦闘機でさえ、3.9~4.0mのプロペラ直径を設定していたことを考えれば、キ87のそれは決して妥当値とはいえなかった。


■排気タービン過給器装備位置の適否

キ87にとって、設計上の最重要ポイントと言っても過言ではない、排気タービン過給器の装備法については、中島の設計部、とりわけ動力担当班が相当に頭を悩ませたことは推察できた。

発動機の排気ガスを利用するのであるから、タービンはなるべく発動機の近くに設置するのが好ましい。しかし、単発戦闘機は、発動機の後方から操縦室にかけての間はスペース的に余裕がなく、内部に設置するのは難しい。

アメリカ陸軍の、P-2からXP-23、さらに最初の実用機となったP-30に至る一連の排気タービン過給器装備機は、その多くが機首の左側面にそれを設置し、エンジンとは最短距離にあった。

しかし、これらは全て液冷V型エンジンを搭載していて、横方向へのスペースがいくらか余裕があったうえに、タービンの能力もまだ低く、圧縮されて高温になった空気をいったん冷やすための中間冷却器の設置もまだ必要がなかったため、可能だった配置とも言えた。

故に、これらに続いたP-38、P-43、P-47各戦闘機は、エンジンから遠く離れた双ブーム上面、胴体中央部下面にそれぞれは移行・切替タービン過給器を設置した。

中島の動力担当技術者たちも、すでにこれらのアメリカ機の情報は得ていたのだろうし、同じ液冷エンジン搭載ということを考えれば、P^43、P-47に倣って、胴体中央部付近の下面に設置するという案も検討したはずだろう。

しかし、キ87は敢えてそうはせず、ハ二一九ル発動機後方の右側にタービン過給器を設置し、操縦席は少し後退させて、中間冷却器などの装備スペースを確保する、というレイアウトを採った。

結論を先に言えば、この判断は失敗で、のちにキ87試作機が完成した頃には、陸軍はP-47に倣った排気タービン過給器配置を採り、機体設計面にも優れた立川のキ94-Ⅱを重視し、キ87が事実上の実験機扱いに”降格”されてしまう一因になった。


■新技術を敢えて避けた機体設計

試作自体が急を要していたこともあるが、動力関係を除く、キ87の機体設計面に関しては、これといって目新しい技法は使われず、概してキ84のそれを踏襲した感じにまとめられた。

もっとも、主翼内に装備する20mm、30mm機関砲の収容スペースを確保するためか、主脚は車輪をモーターで90度捩じって収容する変則的な機構にし、主翼下面にバルジに充てるなど、やや奇をてらった部分もあった。

主・水平尾翼の平面形は、何の変哲もない直線テーパー(先細り)形であるが、主翼の付け根から主脚収容部までの間を、上反角を付けずに水平とした点が、キ84までの中島戦闘機には見られなかった特徴となった。これは、大直径プロペラに起因する地上とのクリアランスを確保するうえで長く見えてしまう主脚の寸度を、なるべく抑えようという意図で採られた措置であった。


■難航した試作

中島の本社、および主力工場は、群馬県の太田市に所在していたが、昭和18(1943)年秋、東京の三鷹市に将来は中島飛行機の総合技術センターとする意図で、三鷹研究所が建設されたことから、キ87の設計部がその先遣隊として同所に移転した。

こうした事情に加え、発動機、排気タービン過給器の開発の遅れもあって、キ87は当初に予定されていた、昭和19(1944)年11月に試作1号機を完成させ、翌20(1945)年4月までに造作試作機を含め計10機を製作するという計画から大幅に後退した。

結局、試作1号機が完成したのは昭和20(1945)年2月となり、2号機すらも、同年8月15日の敗戦時点において、初飛行すらもおぼつかない仕上がりにとどまっていた。


■キ87は実験機扱いに降格

こうした開発作業の遅れもあったが、陸軍のキ94-Ⅱキ87に対する期待は徐々に薄らぎ、昭和20(1945)年春頃までには、立川のキ94-Ⅱを対B-29用迎撃機の”本命”とするようになっていた。

これは、キ87の機体設計が、はっきり言ってキ94-Ⅱに比べて見劣りした上、完成した1号機に不具合が続出し、満足な飛行テストすらできないという状況からして、当然の成り行きだった。

だからといって、キ87と同じハ二一九ル発動機を搭載し、タチエ式翅プロペラを用い、排気タービン過給器も石川島、または日立製を予定していたキ94-Ⅱが、キ87のごとく、それらの不調に悩まされないという保障など、どこにもなかった。

いずれにしろ、キ87の顛末を見ること、この種の高度な戦闘機は、当時の日本の航空工業技術レベルでは、手に負えないものだった、ということがよくわかる。たとえ太平洋戦争が少し長引き、キ87やキ94-Ⅱが少しばかり戦力化したところで、戦局には何ら影響しない、取るに足らない存在だったことは、火を見るより明らかであった。

アメリカ軍は、さらに5,000機以上のB-29を対日戦に投入させる用意をしていたし、なによりも、さらなる原子力爆弾攻撃が実施されれば、文字通りに日本は、根こそぎ破滅してしまっただろう。もう、対B-29戦という発想自体がナンセンスだったのだ。




次回は、日本海軍の『零観』一一型をご紹介します。



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