日本陸海軍機大百科、愛知 水上偵察機『瑞雲』[E16A1] 2012
7/27
金曜日



日本陸海軍機大百科、第72弾は、偵察機の名称を冠しながら、急降下爆撃を本務とした異色の水上機、日本海軍のの水上偵察機『彩雲』を紹介します。

昭和12(1937)年、海軍は将来の新型機開発の指針となる文書「航空機種及び性能標準」中で、艦載用の二座水上偵察機に、はじめて爆撃能力を付加した。しかし、この指針に基づいて開発された「一二試二座水上偵察機」は、競争試作の形を採った愛知、中島両社機とも失敗作となり、海軍の目論見は外れてしまった。そこで、2年後の昭和14(1939)年、改めて愛知1社を対象に試作発注されたのが、一四試特殊水上偵察機だった。本機こそ、日本海軍最初にして、世界的にも類をみない、実質的には”水上爆撃機”と呼べる湯に^苦名機体、のちの『瑞雲』だった。







■海軍二座水偵の変化

日本海軍の主要艦船、とりわけ戦艦や重巡洋艦、水上機母艦などに搭載され、艦隊決戦の際に敵艦の動向を偵察したり、砲撃戦が始まったときには、見方艦の弾着観測を行うのを専らとするのが、二座水上偵察機であった。

昭和10(1935)年9月に正式兵器採用された、中島製の九五式水上偵察機[E8N1]は、そうした海軍の二座水偵に求めた能力を、申し分なく満たした傑作機だった。

一方で、本機の秀でた汎用能力は、海軍の二座水偵に対する要求を更にヒートアップさせ、その後継機となるべき次期新型機の開発を、必要以上に難しくしてしまったと言えた。

すなわち、昭和12(1937)年度に提示された、一二試二座水上偵察機の競争試作の結果が、それを端的に示している.九五式水偵の、小型爆弾(30~60kg)2発の携行能力を活かした、敵の艦船に対する降下爆撃による効果を高く評価した海軍は、一二試二座水偵に対し、さらに威力の大きい二五番(250kg)爆弾一発の懸吊能力を求めた上で、空母搭載の艦上爆撃機に準じた急降下爆撃もこなせることを求めたのだった。


■一二試二座水偵の挫折

海軍の競争試作提示に応じたのは、愛知、中島、川西の3社であったが、川西は社内事情を理由に、ほどなく競争試作に辞退したため、愛知と中島の2社による開発になった。

当時、海軍の主要機種は、従来の複葉布張り構造から、全金属製単葉形態への近代化をほぼ終えつつあり、一二試二座水偵も当然、それが前提とされた。

しかし、全金属製単葉形態は、飛行性能において、複葉布張り構造機に比べて格段の向上が図れる反面、急降下爆撃のような特殊な飛行を行うには、相応の難しさも出てくるため、設計にもそれなりの工夫を必要とした。

急降下すれば、当然、複葉布張り機に比べて重量が重く、スピードが速い全金属製単葉機は、それだけ機体構造を強固にしなければならない。

また、加速がつきすぎて爆弾投下後の引き起こし操作も困難になる。これを防ぐのが制動装置と称したエア・ブレーキであった。フラップを兼用させるか、あるいは、主翼下面などに別途設けるのが一般的だった。

水上機の場合は、空気抵抗の大きい浮舟(フロート)が付いているので、引込脚の陸上機ほど終速(爆弾投下時の急降下速度)は大きくならないが、それでも相応の措置は必要である。

また、急降下中の安全性も重要であり、機体がブレるなどすると照準も狂い、命中率は低くなってしまう。

こうした難しい設計のせいもあって、翌昭和13(1938)年10月から年末にかけて完成した、両社2機ずつの試作機は、テストにて良い結果を出せなかった。

すなわち、双方とも機体重量が計画値が大幅に届かなかったうえ、操縦/安定性にも欠け、とても実用に値しないと判定され、不採用を宣告されたのだった。


■二座水偵という名の水上爆撃機

一二試二座水偵が失敗した後の昭和14(1939)年6月、海軍は向こう3年間の試作計画をまとめた、「自昭和14年度至昭和17年度実用機試作計画」(以下「実計」)と題する文書を発布した。

その中には、一二試二座水偵の”穴を埋める”機体として、「A-10」の実計番号を付与した「一四試二座水上偵察機」の開発も明記されていた。アメリカの日本に対する制裁措置がますます厳しさを増す中、新型二座水偵を一刻も早く実現しなければならなぬ、という思いがあったことは言うまでもない。

前年度の一三試以降、海軍は失敗したときのリスクが大きい、競争試作という形を廃止しており、今回の一四試二座水偵も、愛知1社に絞って試作内示した。そして、計画要求案をさらに念入りに検討した後、翌昭和15(1940)年8月、改めて「一四試特殊水上偵察機」[E16A1]の名称により、正式にに試作発注を出した。

計画要求書の冒頭には、"艦載に適し、急降下爆撃実施容易な高性能(速力250kt-463km/h以上)の水上爆撃機を得る”と記されていた。

一二試二座水偵の試作発注から3年も経っているので当然だが、速度はもとより、上昇力や航続力も大幅に要求値が高くなっており、愛知の技術陣にとってもハードルは極めて高かった。

海軍は、一二試二座水偵の失敗を繰り返さぬよう、要求書には、とりわけ急降下爆撃時の安定性、操舵性、引き起こしの容易さなどが詳細に記されていた。

さらに、爆撃任務中に、敵空母搭載の戦闘機による阻止行動に遭うことも充分に考えられたため、ある程度の空中戦も想定した性能、装備も考慮しなければならず、従来の二座水偵の概念に囚われていては、その実現も困難と思われた。


■苦心の設計工夫

■試作受注した愛知は、一二試二座水偵の教訓を踏まえ、再度の失敗は許されない、という背水の陣で臨んだ。その表れが、技術部の「分担組織方式」への改編だった。

それまで主務設計者に一任していた重要事項決定を、その都度「計画委員会」に諮り、それぞれの設計担当者の意見も汲んだ最善策を見出す、という方式に変えたのだった。

一四試特殊水偵の設計に際し、愛知技術陣が、基本としたのは、高性能と空中戦能力の兼備という点に留意し、それまでの二座水偵には考えられなかった、戦闘機設計に準じたスリムかつシャープな外形、そして主翼面積を小さくし、翼面荷重を14okg/㎡という高い値に設定した点だった。

そうなると、必然的に水上機にとって重要な、離着水性能が低下することにつながるが、それを少しでも緩和するために、水偵としてはじめての試みである親子式(荷重スロッテッド)フラップを採用した。このフラップは、空中戦の際には、操縦桿頂部の押釦(ボタン)操作により子フラップのみが作動するように工夫され、下げたときの翼面積の増加で揚力係数を高めて、旋回性能を向上させることも図っていた。


■戦闘機としての装備

高性能を狙うということもあって、一四試特殊水偵の発動機には、当時としては最高出力に近い1,300hpを発揮する三菱製「金星」五〇型系空冷星形複列14気筒が指定された。

同じ三菱製の「瑞星」(870hp)を指定された一二試二座水偵に比べ、その分、機体重量(正規全備状態)は1トン以上も重い3,900kgになった。

そのため、急降下時の過速防止用にフラップではなく、専用の制動板(エア・ブレーキ)を設けることにした。その設置場所は一般的な主翼下面ではなく、双浮舟の前部支柱とし、板状の側面部を急降下時に両面とも外側に90度開くようにした点がユニークだった。

空母搭載の艦上爆撃機がそうであるように、浅い降下角での爆弾投下ならまだしも、40~50度の急降下姿勢で、胴体下面中心線沿いに懸吊した爆弾を、そのまま投下すると、自分の機のプロパラに接触してしまう危険もある。そのため、一四試特殊水偵も、愛知が昭和14(1939)年9月に正式兵器採用にこぎつけていた、九九式艦上爆撃機に倣った「爆弾投下器」と称するアーム状の装置を備えることにした。

敵戦闘機との空中戦に備えた射撃兵装としては、左右主翼内に7.7mm固定機銃各1挺を予定したが、将来は13mm、または20mm機銃に強化することも念頭に置いて設計した。

水上偵察機とはいえ、主翼内に固定機銃を装備するなど、かつてないことであり、戦闘機としての運用も考慮に入れていた、本機ならではの特徴であった。

爆弾の携行量そのものは、一二試二座水偵のそれと同じで、胴体下面に二五番(250kg)1発、左右外翼下面に三番(30kg)、または六番(60kg)各1発とされた。


■実用化まで長期を要す

特種の名を冠したとおり、求められる能力が高々度、かつ複雑でもあった一四試特種水上偵察機の試作は、当時としてはかなりの長期間を要し、1号機がようやく初飛行こぎつけたのは、太平洋戦争が勃発して既に半年近くになろうとしていた、昭和17(1942)年5月22日のことであった。

その後、3号機まで作られた試作機を使い、海軍側の飛行テストが行われたのだが、最高速度、上昇力が要求値を少し下回り、補助翼、浮舟柱、主翼外板の強度不足など、機体設計上の不具合も指摘されて、それらの改修にも時間をとられた。

飛行性能にはやや物足りなかったものの、現下の太平洋戦争の情勢の厳しさもあり、機体の不具合箇所の改修に、一応の目処が付いた昭和18(1943)年8月10日、海軍は新たな命名基準に沿った、水上偵察機『瑞雲』一一型の名称で、本機の正式兵器採用を決定した。


■異色の航空戦艦への搭載計画

正式兵器採用は決まったものの、この頃の愛知航空機は、艦上爆撃機「彗星」(空技廠の設計機)の全力量産を行っており、瑞雲の量産まで手が回りかねる状況だった。

そこで、海軍は『瑞雲』の量産を、日本飛行機に順次移行させることにし、愛知と同社にその準備に入るよう命じた。このような事情もあって、瑞雲の量産1号機が愛知の工場で完成したのは、翌昭和19(1944)年2月5日と、計画よりも大幅に遅れた。

この間、本機を取り巻く情勢は大きく変化し、当初、あくまで水偵としての運用が主で、急降下爆撃は副次的と考えていた構想は、実情にそぐわなくなっていた。

すなわち、ミッドウェー海戦の大敗によって、空母戦力が著しく減少したため、瑞雲は、艦上爆撃機兵力を補完する存在と位置づけられたのだった。文字通り、”浮舟を付けた水上急降下爆撃機”として扱われるかたちとなった。

そのため、本機を一定数まとまった兵力として運用出来る搭載艦が求められ、それを既存艦の改造等手段で具体化したのが、航空巡洋艦と呼称された「最上(もがみ)」、航空戦艦と呼称された「伊勢」「日向」であった。

とりわけ、伊勢と日向は、艦隊後部に極めて面積の大きい「飛行作業看板」を有し、彗星と瑞雲を遭わせて22機も搭載可能にしたので、正規空母に準ずる爆撃機兵力保有艦と言えた。


■航空隊の大改編

なお、伊勢と日向の航空戦艦への改造は、昭和18(1943)年11月までに終了しており、この時点での搭載機は、射出機発進可能に改修された「彗星」二二型のみに統一されていた。

しかし、その改修に時間がかかり、期限内に予定数を揃えることが難しくなったことで、最初から射出発進能力を持っていて、急降下べく激能力もある瑞雲で、半数を満たすことに計画変更されたのだった。

昭和19(1944)年2月15日付けで、日本海軍は航空隊の大改編を実施し、それまで空母毎に固有の飛行機隊を持っていたのを止め、六〇〇番台の番号を冠する艦隊航空隊を編成し、それらが作戦の時に、所属する航空戦隊の各空母に分乗するという形に改められた。いわゆる「空地分離」制度の導入だった。

伊勢と日向の2隻で第四航空戦隊を構成し、その搭載機を運用する組織として、第六三四海軍航空隊が新たに編成(5月9日付)された。


■航空戦艦での運用成らず

昭和19(1944)年2月末から、瑞雲量産期の海軍側の領収が始まったことからして、前述六三四空への配備が、本機にとって部隊就役の嚆矢となったことは明かだった。

その瑞雲隊の訓練基地は、広島県・呉基地に置かれ、まず、搭乗員の水上からの離発着に始まり、編隊飛行、降下爆撃、空戦訓練へと段階的に進められた。

しかし、量産ペースが鈍いこともあって、六三四空への機材配備も迅速に行われず、訓練も思うようなペースで進まなかった。伊勢、日向からの射出機発艦訓練が始まったのも、6月下旬になってからで、当初に計画していた「あ」号作戦(マリアナ沖海戦-6月19日~20日)への参加も叶わなかった。

9月末頃になって、ようやく所定の練度に達し、実践態勢が整ったが、この頃には、アメリカ軍の比島(フィリピン)への来攻が必至の情勢となり、日本海軍航空隊としても、もてる兵力の全てを同方面の防御に充てざるを得なくなった。

そのため、せっかく航空戦艦による戦力単位として形を成したばかりの六三四空も、この比島攻防戦に際しては、陸上基地兵力に組み込まれて投入されることが決まり、母艦と引き離されてしまった。

10月12日、六三四空は第二航空艦隊に編入され、瑞雲隊は台湾を経由して、比島・ルソン島のキャビテ軍港に進出し、当初には考えもしなかった、敵占領地に対する夜間のゲリラ的攻撃に苦闘することになった。



次回は、日本陸軍の『九三式中練)』をご紹介します。


※サイト:日本陸海軍機大百科


(2012/07/27 16:04)



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