日本陸海軍機大百科、『キ49試作高々度戦闘機』[キ49-Ⅱ] 2012
7/5
木曜日



日本陸海軍機大百科、第71弾は、対B-29戦を主眼に開発された、日本陸軍最強の高々度防空戦闘機、『キ49試作高々度戦闘機』を紹介します。

太平洋戦争開戦から、ほぼ1年が経過した昭和17(1942)年末、ごく断片的でしかしなかった敵国アメリカ陸軍航空隊の次期新型四発重爆撃機、ボーイングB-29の開発進捗状況、およびその概要に関する情報が、ある程度明らかになった。その高性能は、日本陸海軍航空関係者を戦慄させるレベルと言ってよかった。これを契機に、日本陸海軍新型戦闘機開発は、B-29を迎撃できる高々度性能を備える、防空戦闘機を最優先にする方針へと一変した。その中心にあった機体の一つが、今回の立川キ94-Ⅱであった。


■過給器の重要性

そもそも、航空機用のレシプロエンジンも、自動車や船舶のエンジンと同じ内燃機関である。ガソリンなどの石油精製品を燃料とし、それを空気と混合してシリンダー内で爆発・燃焼させ、そのときの圧力でピストンを動かし、それらをクランク軸で回転運動に換えて、推進エネルギーにするというのが、その基本原理である。

しかし、自動車、船舶と違って、空中を飛ぶ航空機は、その飛行高度が上がるにつれ、空気密度も低くなっていき、エンジンが吸入する空気量も減少して、ガソリンとの混合気の爆発・燃焼が上手くいかなくなってしまい、運転継続に支障を生じてしまう。

これを解決する手段として考案されたのが過給器であった。クランク軸の回転を歯車で導いて翼車(インペラー)を回し、吸入した密度の低い外気を、その回転で生じる遠心力によって圧縮して高め、それをシリンダーに送るようにしたのである。

過給器を備えたエンジンは、1930年代半ばには列強各国にほぼ普及し、戦闘機や爆撃機などの主要機種の作戦高度は、みな5,000メートルを超えるようになった。


■排気タービン過給器開発の先鞭をつけたアメリカ

しかし、一方で、過給器はエンジンのクランク軸回転を歯車に伝導して翼車を回転させるので、エンジン出力を少なからずロスするのもまた事実だった。

これを防ぐ方法はないかと、いろいろ考えた末に、アメリカがまず先鞭をつけたのが、エンジンの排気ガスを利用して翼車を回す、排気タービン過給器だった。

まだ複葉羽布張りの構造機が幅を利かせていた1920年代の半ば頃、アメリカはカーチス社の複葉戦闘機を使って、同社製液冷エンジンと、排気タービン過給器の組み合わせによるテストを行った。

当時のアメリカは、イギリス、フランス、ドイツなどのヨーロッパ航空先進国からみれば、とるに足らない程度の存在ではあったが、さすがに、モータリゼーションの発達していていた国だけに、後の軍事大国としてのし上がる素地は、この排気タービン過給器開発にも滲み出ていた。

そして、この地道な努力は、やがて1930年代半ばになって、世界最初の排気タービン過給器装備の大型四発重爆撃機ボーイングB-17、さらにB-24、そしてロッキードP-38、リパブリックP-47戦闘機として具現化し、この分野において、他国の追随を許さぬ”独壇場”の観を呈していくのだった。


■異次元からの登場、B-29

こうしたアメリカの先進的工業技術力が、発達のピークに重なった1940年8月に、陸軍航空隊から試作発注されたのがB-29であった。その試作1号機が初飛行したのは、1942年9月のことで、排気タービン過給器は言うに及ばず、B-17、B-24では成し得なかった1万メートルの高々度をTシャツ姿の乗員が悠々と飛行乗務出来る与圧キャビンの完備、全て遠隔操作で照準、射撃を行う強力なる防御銃塔など、最新のテクノロジーが集約されていた。

そして、その飛行性能は、世界最大出力を誇ったライトR-3350空冷星型18気筒エンジン(2,200hip)により、高度7,600m付近にて、日本の零戦よりも速い570~580km/hの最高速度、正規にて6,000kmを超える航続力など、日本から見れば、まさに異次元から登場したようなハイレベルのものだった。


■早急に高々度戦闘機を!!

こうしたB-29の破格の高性能を知った日本陸海軍航空関係者が、将来に大いなる不安を抱いたのは当然だった。

措置分け、本土防空を担う陸軍にとっては、早急に、このB-29を迎撃できる高々度戦闘機を開発することが、最優先課題となった。

当時、日本でも排気タービン過給器の開発は、三菱、日立、石川島の各民間メーカーで行われていた。しかし、何分にもまだ手探り状態で、実用化には程遠い現状だった。

一番の問題は、高温の排気ガスに耐えられるタービン部品が作れない事だった。もともと、日本は鉱物資源に乏しく、耐熱鋼の原料となるニッケル、タングステンなどを十分に入手できなかったことが響いていた。

それでも、陸軍は将来を見越して、翌昭和18(1943)年6月24日、中島飛行機と立川飛行機の両社に対し、排気タービン過給器装備を前提にする最初の高々度戦闘機として、それぞれキ87、キ94の試作番号をあたえて開発着手を命じた。


■立川飛行機の挑戦

それまで歴代陸軍制式戦闘機を生み出してきた中島飛行機に、キ87が試作発注されたのは理解できる。しかし、陸軍機専門メーカーを自負していた立川飛行機とはいえ、それまで、ほとんど練習機、小型偵察機しか開発経験がない同社に、いきなり高度なく売り機設計技術を要する排気タービン過給器装備の高々度戦闘機を試作発注した、陸軍航空本部の判断は、いささか意外であった。

しかし、航空本部にはそれなりの目算があった。立川は、確かに戦闘機設計の経験はないが、求められる高々度飛行能力には欠かせない、気密乗員室(与圧キャビン)の研究・開発に長じており、この面においては、三菱やなK島と言った大メーカーを差し置いて、日本では最も豊富なノウハウを持っていた。

さらに、立川は既に昭和18(1943)年3月時点で、会社の将来の経営方針を見据えて、戦闘機設計も自主的に行い、当面は、優先度の高い高々度防空戦闘機計画案を作成し、航空本部側に提案していたことも大きな理由であった。

そして、キ94を試作受注した立川が、その設計主務者に、戦闘機設計はおろか、それまで設計の実務経験すらなかった、入社4年目で弱冠27歳の長谷川龍雄技師を配したことも、異例というよりも大きな賭であった。


■若き秀才

もっとも、立川の幹部とて、あまたの先輩達を差し置いて、若年の長谷川技師を闇雲に大抜擢したのではなかった。それなりの裏付けもあってのことだった。

長谷川技師は、大正5(1916)年、鳥取県に生まれ、昭和14(1939)年に東京帝国大学(現東京大学)工学部航空学科を卒業して、立川飛行場に入社した。

同機の卒業生はたったの9名。文字通り、”粒よりの”秀才だったのだが、同僚達がみな三菱、中島など大メーカーへ就職を望んだ中で、長谷川技師は、敢えて中堅どころの立川を選択した。

というのも、大メーカーには名だたる諸先輩が犇めき、入社しても設計主務者を任されるまでには、相当の年月を要するはずだからだった。ならば、そういうハードルが少しは低い、中堅どころに入社したほうが、自らの願望を果たしやすいと考えた、したたかな計算があった。

だからといって、長谷川技師はたんに立身出世だけを求めたのではなかった。如何にハードルが低いといえど、そう簡単には責任ある仕事が任されるはずはなく、3年ほどはほとんど閑職に甘んじていた。

しかし、この期間をただ漠然と過ごさい点が、長谷川技師の非凡たる所以で、彼は主翼断面形の研究に没頭し、昭和17(1942)年3月、自ら考案した「TH翼型」と証する論文を、日本航空学会誌上に発表して、大きな反響を呼んだ。


■速度性能面で有利なTH翼型

THとは、自らの英語名綴りTattoo Hasegawaの頭文字から命名した。TH翼型は層流翼型の一種だが、アメリカのP-51マスタング戦闘機が採用して一躍世界的に有名になったものとは異なり、翼弦方向の後半も薄く絞り込まず、全体的にナマコ型と証される断面形とし、後縁にもごく小さな「R」(弧)を持たせた点が特徴であった。

長谷川技師は、このTH翼型を用いれば、層流翼型の効果は更に増し、速度性能優先の先頭機機は最も適した翼型である、と主張したのだった。

この論文は、立川社内における長谷川技師自身の立場をも一変させ、上層部に、キ94主務設計者に抜擢させる大きな原動力になったことは間違いない。


■奇抜な形態を採ったキ94-Ⅰ

自ら望んだこととはいえ、会社の命運をも左右しかねない大役を任されたことに、若き秀才の長谷川技師も、思わず身震いするほどの緊張感に包まれた。だがその一方で、三菱や中島と言った大メーカーの期待に引けをとらぬ優秀機を産み出してやろう、という気概も湧いてきた。

キ94の設計にあたり、彼がまず考えたのは、機体外形をまとめるのに、これまでの常識的なデザインに囚われていては、軍側に強烈なインパクトは与えられず、ライバルの中島キ87に対しても分が悪いという点だった。

そこで、長谷川技師は日本軍用機としては過去に例がない、「短胴串型双発双側胴」と称すべき、奇抜な外形にすることにした。

この形態は、現下の太平洋戦争において、南方戦域で日本陸海軍機に脅威を与えつつあったアメリカ陸軍のロッキードP-38ライトニング双発戦闘機にも似たものだった。

ただ、P-38は双側同隊の延長上の左右主翼前縁にエンジンを配したのに対しキ94は中央胴体の前後に、排気タービン過給器併用の三菱製「ハ二一一ル」発動機(離昇出力2,200hp)を配し、牽引/推進双方のプロペラによって、最高速度780km/h(高度10,000にて)を狙って点が大きな違いだった。

その形態からして、降着装置は一般的な尾輪式は無理であり、必然的に前輪式になった。これは、日本の戦闘機として最初の試みでもあった。

B-29を仮想敵機としただけに、当初、射撃兵装も20mm機関砲x2門、30mm機関砲x2門と強力なものになる予定で、将来は、20mm機関砲に換えて40mm機関砲1門を装備することも計画された。

大出力発動機の双発ということもあって、キ94の自重は6,500kg、全備重量は8,800kgという陸軍戦闘機としてはかつてない大重量機になった。これは、かつての九七式重爆撃機にほぼ匹敵する値だった。

この超ヘビー級な機体だが、高度1万メートル付近で最高速度780km/h、同高度までの上昇時間9分56秒、実用上昇限度14,000mの飛行性能は出せる、というのが長谷川技師以下技術陣によって算出された数値だった。


■突然の試作中止命令

キ94の開発は緊急を要するという軍側の意向もあって、試作1号機の完成は、昭和19(1944)年12月と指示されていた。諸々の新機軸を盛り込み、しかも前例のない形態の双発機。弱冠27歳の主務設計者が初体験の長谷川技師にとっては、とてつもない高いハードルだったはずであった。

しかし、彼は若さ故の超人的とも言えるハードな日程で、順調に作業を進め、昭和19(1944)年2月上旬には、実大模型(モックアップ)審査にこぎ着けた。

そして、その第一次、二次審査も無事パスし、いよいよ実機の製作に取り掛かろうとした矢先の2月25日、陸軍航空本部からキ94の突然の施策中止が宣告された。

中止の理由は、搭載発動機に予定していた三菱製「ハ二一一ル」の実用化が早急に見込めないこと、審査後に、操縦室の前後に発動機があるので、不時着したときに操縦者が挟まれて圧死する危険が高く、飛行中の非常時、機外脱出も困難なこと、などと用兵者側が判断した。

しかし、真の理由は前例のない奇抜な形態故に、陸軍航空本部側が不安を抱き始めていた、ということらしかった。

いずれにせよ、全身全霊を注いで開発してきたキ94を納得のいかない形で中止宣告されてしまった長谷川技師と立川幹部は多いに憤慨し落胆した。

ただ、あとになって冷静に考えてみれば、陸軍側の判断も正しかったと言えた。

指摘されたように、奇抜な形態は確かに排気タービン過給器関連装備スペースの不足など、多くの問題も出始めており、長谷川技師自身、それらを全て解決出来る策が見つからなかったのも事実だった。

その後、名誉挽回のチャンスは訪れ、キ94ーⅡとして、対B-29迎撃を主務とした帝都(東京)防空を担った部隊として活躍したかもしれないが、昭和20(1945)年7月20日の完成後、飛行テストの準備中に敗戦を迎えた試作1号機が、今回の写真紹介のモデルである。機体上面は暗褐色、下面は灰色の迷彩塗装、胴体および主翼上、下面に白縁なしの日の丸をペイント、また、胴体下部の排気タービン過給器の塗り分けや、プロペラ各部の黄色の矩形と警戒帯、さらには、主翼から突きだした機関砲、ピトー管の塗り分け、着陸灯カバーなど細部塗装の仕上げとなっている。


次回は、日本海軍の水上偵察機『瑞雲(ずいうん)』をご紹介する予定。



※サイト:日本陸海軍機大百科


(2012/07/05)



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