日本陸海軍機大百科、特殊攻撃機『橘花』 2012
6/6
水曜日


日本陸海軍機大百科、第69弾は、太平洋戦争末期、アメリカ軍側の圧倒的兵力による攻撃の前に、早急なる本土防衛策の実施を迫られた日本海軍が、ドイツの先進技術に頼って、ひたむきに実用化を目指した特殊兵器のひとつ、それが『橘花』だった。本機は、当時の日本航空技術では到底実現不可能だったジェットエンジン搭載機であり、上陸作戦のために日本近海に押し寄せるアメリカ海軍船舶、および上陸用舟艇群など攻撃するための爆撃機としての配備を目指した。しかし、その開発は余りにも遅きに失し、太平洋戦争終結時、試作1号機がやっと初飛行にこぎつけたものの、戦力化にはほど遠い状況だった。


■日本海軍のジェットエンジン開発

一般には余り知られていないが、実は日本海軍でも太平洋戦争勃発の1年以上前から、ジェットエンジン開発を行っていた。先駆国であるイギリス、ドイツからもたらされた断片的な情報を集め、航空技術廠に設置された「噴射推進機研究班」により、その研究を始めていたのである。
当時の日本陸海軍では、航空機用エンジンを「発動機」と呼称していたが、ジェットエンジンについては制式な和名称はなく、「タービンロケット」などと呼称していた。
しかし、この名称は一般的に馴染みが薄く理解しにくいので、ここではポピュラーな用語として定着しているジェットエンジンという呼称に統一する。
前述した空技廠の噴射推進機研究班は、まず、イギリス、ドイツ双方が初期開発段階で用いた遠心式ターボジェット方式に倣い、「TR」(Turbine Rocketの略)と命名した試作品を製作し、昭和18(1943)年6月に完成させてテストした。
しかし、見よう見まねで製作しただけに基礎的な裏付けを欠き、設計の稚拙さや構造材料の不適切さからくる圧縮機翼車、タービン翼車の切損、主軸、燃料室の破壊などが次々に露呈して、とても実用化できるしろものではなかった。

■ドイツからの福音

それでも、海軍はTRへの望みを捨てきれず、空技廠に改良型として「TR-10」の試作を命じた。
しかし、空技廠がTR-10の開発に苦闘する間に太平洋戦争の状況は日本側にとってますます不利に傾き、昭和19(1944)年6月15日深夜を境に、陸海軍航空行政は、その根本から改めざるを得ない状況に追い込まれていった。
言うまでもなく、アメリカ陸軍の超重爆ボーイングB-29による日本本土空襲が始まったからに他ならない。B-29の高性能は日本陸海軍の想像を遥かに超越しており、既存の戦闘機では昼間高々度進入してくる本機に対し、まともな接敵すら困難だった。
このB-29を迎撃できる真の防空戦闘機を一刻も早く完成させねば、国の命運も尽きてしまう。陸海軍航空にとって、この課題はほかの全ての事項に優先して取り組むべきものになった。
とは言っても、自国の航空技術だけでそれを実現するのは到底不可能に近かった。そんな絶望的状況に一条の光を射したともいえるのが、一ヵ月後の7月にドイツからもたらされた核心のロケット戦闘機Me163B"コメート"およびジェット戦闘機Me262の技術資料だった。

■陸海軍必至の国産化

これは、海軍のドイツ在住武官が長期の難交渉の末、ようやくヒトラー総裁、H・ゲーリング国家元帥兼空軍司令官の裁可にこぎつけたもので、はるばる大西洋、インド洋を経て連絡潜水艦により持ち込まれたものだった。
日本陸海軍は、藁にもすがる気持ちで、この資料に飛びついたのは言うまでもない。ただちに両機の国産化が決定され、Me163Bは陸海軍共同開発作業となり、「秋水(しゅうすい)」の呼称で三菱に発注された。
しかし、Me262のほうは陸海軍別々に国産化することになり、海軍は「皇国二号兵器」の仮称で爆弾懸吊可能な特殊攻撃機として調達することにし、中島飛行機に機体の試作が内示された。
海軍は何故、急を要する対B-29用の防空戦闘機ではなく、対艦船攻撃用の爆撃機を欲したのか、それには理由があった。

■身の丈にあった国産化

Me262が搭載するユンカースJumo004B軸流式ターボジェット・エンジンは、当時、最も水力が大きく(900kg)、なおかつ精緻を極めたエンジンだった。これをそのまま国産化するには、当時の日本工業技術レベルでは荷が重く、到底同じ品質、性能のものまでは作れなかった。
さらに、海軍にとっても当面の目標は、日本本土近海に接近してきて、上陸作戦支援を行うアメリカ海軍の艦船群であり、B-29の迎撃は、「秋水」と陸軍のMe262国産化品に任せればよい、という判断があった。
従って、皇国二号兵器は、Me262のような超高性能機ではなくてもよく、既存のレシプロ機をしのぐ程度で充分と割り切ったのだった。

■「試製橘花」として計画案まとまる

国産化決定から4ヶ月後の昭和19(1944)年12月末、海軍は皇国二号兵器を「試製橘花」の正式な試作名称に改め、その計画要求書案を提示し、中島飛行機に対して試作発注した。
海軍の命令基準に照らせば、花の名を冠するのは、本来は体当たり特別攻撃機であったが、橘花に関しては、「特殊攻撃機」という機種名が充てられており、爆弾投下装置や防弾装備などが要求されていたことからもわかるように通常の攻(爆)撃機という考えで試作された。
海軍が提示した要求案の趣旨はいたって簡単で、その開発目的は”近距離ニ近接シ来タレル敵艦船ヲ攻撃スルニ適シ、且多量生産ニ適スル陸上攻撃機ヲ得ルニ有リ”とし、ネ一二エンジン双発の単座戦闘機で、横穴式の格納庫に収められるように主翼は折りたたみ式とし、その際の巾は5,3m、全長9.5m、全高3.1m以内に抑えることとされた。
飛行性能は、五〇番(500kg)爆弾1発搭載状態の最高速度が海面上で275kt(509km/h)、航続距離は110浬(204km)、上昇力は特に数値を示さないが、離昇直後、脚出し時などに過小にならぬこと、離陸滑走距離は、離陸促進装置(火薬ロケット・ブースター)を使用した場合に、無風状態で350m以内とされた。
そのほか、艤装面では操縦室の風防前面に70mm厚防弾ガラス、同下方、および後方に12mm圧の防弾鋼板を備えること。燃料タンクは22mm圧の内装式防弾タンクとし、無線機は三式空一号型の受信機のみを搭載することなどが示してあるくらいだった。

■中島技術陣の工夫

中島では、海軍の攻撃機を担当していた松村健一技師と大野和男技師を中心に設計班を編成し、内示があった8月から基礎研究を進めており、ネ一二を胴体内に2基並べて配置する案なども検討したのだが、結局はMe262に範を採った基本形態に落ち着いた。
もっとも、エンジンの推進力がMe262のUumo004Bの900kgに対し、ネ一二はわずか1/3程度の315kgしかなく、同じサイズ、重量では到底実用に値する飛行性能は出ないから、否応なしに小型・軽量化を図らなければならなかった。
時間的な制約も厳しく、Me262と同じ洗練した外形にするのはとても無理で、攻撃機という使用目的、および材料の節約という面からも、構造は可能な限り簡素にする必要があった。

■既存部品で一部代用

ベースとなるデザインがあったので、中島の機体設計はきわめて迅速に進み、昭和20(1945)年1月28日には第一次木型審査、2月10には第二次木型審査をそれぞれパスして、ただちに機体製作に取り掛かった。
胴体は前部、中央部、後部の主要3部分から成り、Me262に似たオムスビ形断面をしており、操縦室を挟んだ前後に容量725Lの燃料タンクを配した(正規状態では前部タンクのみを使用)。後部から尾翼にかけては、Me262とは異なって断面は楕円形となり、垂直尾翼の計上は直線的でシンプルなものに変更した。
主翼は、Me262のような後退翼ではなく、単純な直線デーパー形とし、ポッド式に装備するエンジンのすぐ外側から上方に折りたためるようにした。前縁後退角が強いため翼端失速が生じやすく、それを防ぐための前縁固定スロットを持ち、内翼は5°、外翼は2°の上反角を付したために、正面から見ると軽いガル翼携帯になっていることが概観上の特徴であった。
時間的な制約から、主脚は零戦のそれを、前車輪は銀河の尾輪を流用するなど、既存部品を可能な限り使った。
また、当時はアルミ合金の不足が深刻となり、橘花も鋼材、薄鋼板(ブリキ板)、木材の代用を強いられたが、のちに主脚構造材に銅材を使うのは好ましくないと判断され、アルミ合金製に設計し直す破目になった。

■後手に回ったエンジン開発

中島における機体の製作は、ともかくにも突貫作業で進んだが、空技廠担当のネ一二エンジン開発は、昭和20(1945)年1月になっても諸問題解決の目処が全く立たず、もはや計画を根本から変更する以外にないところまで追い詰められた。
結局、発動機部研究第二課長の種子島時休中佐の決断により,TR-10~ネ一二にいたる遠心式ターボジェットの開発は全て中止。代わってBMW003Aを模した軸流式8段圧縮器の『ネ二〇』を新規開発することになった。
空技廠技術陣は、失った5ヵ月を取り返すべく、ほとんど不眠不休の作業でネ二〇開発に没頭し、昭和20(1945)年1月末から出図を始め、3月1日には細部出図の完了、同月26日に1号基の試験運転にこぎつけるという離れ業を演じた。模倣とはいえ、たった一枚の構造断面図から、これほど短期間でテーパージェット・エンジンを完成させた技術力と精神力は敬服に値する。
ネ二〇は、BMW003Aより長さが60cmほど短く、重量も170kg軽いうえ、推力は60%の480kgにすぎなかった。それでも、ネ一二に比べれば50%以上は大きく、橘花に少なくとも既存の陸外群レシプロ・エンジン戦闘機をしのぐ速度性能は保証できそうであった。

■技術力の限界

ベンチテストでは、圧縮器軸受けの焼損、燃焼室の振動など、相変わらずTR以来の基礎技術力の貧弱さから来るトラブルに悩まされた。とりわけ、タービン翼車の亀裂は、構造材料に適したニッケル鋼が、わが国では入手することが困難だったのと、翼車を軸にゆるく嵌合(かんごう)するという対処法に気がつかなかった、いわば当時の日本の国力、技術力の限界であり、根本的な解決の処方箋はなかった。
それでも、技術陣の件名の努力により、圧縮器軸受けの焼損、燃焼室振動などはほぼ解決した。タービン翼車の亀裂に関しては、効率低下をしのんで、翼車計上をナメクジ形に改め、枚数を減らすなどの苦肉の策でなんとかごまかし、連続運転4時間の耐久力をもたせるまでにこぎつけた。

■養蚕小屋での試作

これを受けて、海軍は昭和20(1945)年4月中旬、橘花の搭載エンジンをネ二〇に統一することを制式に決定した。しかし、慌てたのは中島で、製作中の主翼はネ一二搭載を前提にしていたため、急ぎ取り付け部の設計変更を余儀なくされたが、関係者一同の不眠不休の冠張りで、短期間にこれを終了した。
この頃、すでに日本本土はアメリカ海軍艦載機の空襲もうけるようになっており、群馬県の大川村・小泉に所在した中島の海軍機生産工場でも被害が目立ち始めていた。
そのため、各設計班を近郊に分散疎開することになり、橘花の設計班は栃木県佐野市の中学校舎に、製図現場は埼玉県妻沼の製粉工場に、荷重試験部は小泉の東10kmの館林に所在した製糸工場にそれぞれ移転した。
そして、機体主要部の製作は、第一海軍技術廠(昭和20(1945)年2月15日付けで旧空技廠を改編)をはじめ、中島の小泉本工場から西方に約9km離れた粕川という寒村の各農家の養蚕小屋を徴用して行い、完成した部品はそれぞれ小泉に運んで最終組み立てを行うという、きわめて効率の悪いシステムをとらざるを得なかった。
最新技術の集成であるジェット機が、茅葺屋根の養蚕小屋で作られるというミスマッチ。当時の日本のおかれた苦しい状況を象徴的に示す現象であった。
なお、航空機開発、量産計画において、陸海軍と綿密な協調体制を採っていたkともあり、中島飛行機は、4月1日付けをもって『第一軍需工廠』に指定されて官営組織となり、前節日、従業員を国に提供することになった。

■日本発の試作ジェット機が誕生

小泉工場は『第二製造廠』と名を変え、佐野、館林、妻沼などそれぞれの移転先は、第一一一支廠、第三二一分廠などと呼称された。
こうした何もかもがめまぐるしく変動する中で、4月25日には強度試験用0号機が完成して所要のテストを行い、6月25日、柏川の養蚕小屋の中で遂に一号機が完成した。
沖縄も陥落し、レシプロ・エンジン用ガソリンは底を突き、航空機製造に不可欠なジュラルミン材料の保有量も9月いっぱい、長くても年末までという状況となっていては、もはや誰もが日本の敗戦が近いことを悟っていた。橘花の開発、政策にかかわった人々もそれは同じであったが、日本最初のジェット機を一日も早く飛ばしてみたいという、その信念だけが日々の苦しい作業に耐える支えだった。

■試作1号機、遂に飛ぶ

柏川で完成した1号機は、一旦分解され、小泉工場に運ばれてネ二〇エンジンを搭載。重量、重心の測定、完成審査を受けた後、6月30日にはじめてエンジンを始動して、第一回地上運転を行った。
振動試験、操縦装置剛性試験などをパスして、いよいよ飛行テストに望むこととtなり、7月8日、ジェット飛行に適した広大な木更津基地(千葉県)に搬送するため、再び分解、梱包された。
7月13日、木更津基地にて最初のエンジン試運転が行われたあと、27、29日に計3回の地上滑走試験を実施。8月6日には最終的な地上滑走試験をパスし飛行テストへの準備は全て整った。
そして、8月7日、木更津基地は朝から真夏の太陽が照り付けて暑いものの、快晴の好条件であった。横須賀空飛行実験部の高岡迪少佐が登場した橘花1号機は、長さ1,800mの滑走路を半分も走行せずに、軽々と離陸し、高度約600mで脚出しした状態のまま、東京湾上空を11分間にわたって飛行士、無事に着陸した。日本における史上初のジェット機の飛行は、こうして成功裏に終わった。




※サイト:日本陸海軍機大百科


(2012/06/06 21:54)



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