日本陸海軍機大百科、『零式練習用戦闘機』[A6M2-K] 2012
6/3
日曜日



日本陸海軍機大百科シリーズ第68弾は、搭乗員の実用機訓練を円滑にするために生まれた零戦の複座型、日本海軍の『零式練習用戦闘機』[A6M2-K]を紹介します。



ひととおりの基礎訓練を修了した海軍航空機搭乗員の練習生たちは、次のステップとして、それぞれに振り分けられた機種ごとに、その実用機を使った練成カリキュラムに進んだ。この階梯では通常、現用主力機の1~2世代前に第一線を退いた旧式器を装備品の簡略化などの処置を施したうえで充てるのが一般的だった。しかし、実用機の性能向上が顕著になるにつれ、旧式機とのギャップも大きくなり、訓練にも不都合が生じてきた。それを解決する手段が現用主力機を改造し、訓練専用型を新規に作ることだった。ゼロ戦を複座化した零式練習用戦闘機も、そうした機体のひとつであった。


■海軍複座練習用戦闘機の系譜

海軍航空隊が、旧式機、現用機の如何を問わず、実用機を複座に改造したうえで練習用先頭kとして用いたのは、九〇式艦上戦闘機が最初であった。

本機は、三式艦上戦闘機の後継機として、昭和7(1932)年4月に制式採用された。その発展型ともいうべき、同じ中島製の九五式感情戦闘機が昭和11(1936)年1月に制式採用されたのに伴い、順次第一線を退いたが、それとほぼ時期を同じくして、複座化した練習専用型が作られ、昭和14(1939)年にかけて、合計66機が調達された。

ベースになったのは、最後の生産型である三型で、従来の操縦席のすぐ後に複操縦装置を持つ教員席を設け、重心が交代するのを相殺するために、機種を少し前方に延長したのが主な相違点であった。

本機は、もともと操縦・安定性の良さには定評があったので、練習機としての使い勝手もすこぶるよく、後継機九五式艦戦の練習専用型が作られなかったこともあって、太平洋戦争初期の頃まで長期にわたって使われた。


■名機九六式艦戦の複座練習機型

昭和11(1936)年11g圧、九五式艦戦の後継機として制式採用された三菱九六式艦上戦闘機は、海軍最初の全金属製単葉戦闘機ということはもちろん、その設計、性能両面において、欧米航空先進国と肩を並べる水旬まで日本航空技術レベルを高めた機体としても画期的な存在であった。

そんな本機の複座練習機型が計画されたのも当然の成り行きと言えるが、その具体化は以外に遅く、改造設計が渡部鉄工所(のちの九州飛行機)に命じられたのは、既に太平洋戦争が勃発して2カ月が経った昭和17(1942)年2月のことだった。



■練習機への設計改造

当然、この頃には海軍の実施部隊への後継機である零戦の配備も済んでおり、十五試練習用戦闘機[A5M4-K]の試作名称を付与された本機は、その零戦搭乗員の鍛錬に使うのが目的とされた。

改造ベースになったのは、最後の生産型である四号型[A5M4]で、操縦席の直後に複操縦装置を持つ教員席を設け、胴体後部両側には安定ヒレを追加したところがポイントだった。

また、複葉の九〇式練戦には必要なかったが、単葉の九六式艦戦では、万一転覆事故を起こしたとき、解放式風防の座席に座る練習生、教員ともども、諸に身を潰されてしまうので、両席の直後に堅牢な保護支柱(ロール・バー)を設けたことも外観上の目立つ変更点だった。

さらに、地上での整備・取扱いの便を図り、主脚の車輪覆をフォーク部分のみ覆うだけの簡略化したものに変更した点も、その使用目的をよく示している。

改造設計作業はわずか2カ月で修了し、4ヶ月後の昭和17(1942)年6月には、早くも試作1号機が完成した。


■予想外の少数生産に終わる

完成した試作機は、ただちに航空技術廠飛行実験部によってテストされ、その結果、練習用機として満足すべきものと判断され、昭和17(1942)年12月、二式練習用戦闘機の名称で制式採用が決定した。

第5号機以降の生産は、渡辺鉄工所でははく、長崎県の大村基地に隣接した海軍第二十一航空廠が行うことになったが、それも僅か24機で打ち切られてしまい、当時の狙いは全く外れた形になった。

その理由は、後述する零戦そのものの複座練習機型が、当の二十一航空廠で改造設計が進められており、二式練戦を調達する意義が薄れてしまったからにほかならなかった。

ならば、もっと早期に零戦の複座練習機化を実施していれば、二式練戦に費やした労力、資材の無駄は防げたのではないか、とも思えるが、これも非常時によくある錯誤の一例なのだろう。


■もうひとつの九六式練習用戦闘機

二式練戦は、全く当てが外れた格好に終わってしまったが、その穴を埋める存在になったといってもよいが、もうひとつの九六式艦戦ベースの練習機、九六式練習用戦闘機であった。

といっても、機体に大幅な改造設計を加えてものではない。零戦の就役が進むにつれて余剰となり、大量に第一線を退いてきたノーマルな九六式四号艦戦から、練習機として使うのに不必要な一部の艤装品を取り外し、整備、取扱いの便を図るため、主車輪覆も撤去するなどの措置を講じた程度のものであった。

ただし、内容の変更も小さくないため、制式兵器として、前述したような名称が別途付与された。紛らわしいが、記号も二式練戦と同じA5M4-Kが与えられており、両機を混合しないよう注意する必要がある。

単座のままなので教員は同乗できず、離陸跡は定められたカリキュラムに従って、練習生が自分だけを頼りに各種飛行訓練を行った。


■零戦の複座練習機型

十五試練戦の実用化を進めるのと並行し、海軍は、現用主力機の零戦の複座練習機化も考え、第二十一航空廠に対し改造設計を命じた。改造ベースになったのは、零式一号艦戦二型(のちの二一型)で、原型の操縦席の後方に複操縦装置を持つ教員席を設け、その上部を大きな風貌で覆った。

対照的に、連巣修正が座る前席は、固定風貌を残して取り払われ、訓練時の視界確保を優先した。その前席への乗降を容易にするために左右側壁に下方へ開く乗降扉を新設したことも練習専用機ならであった。

教員席の追加に伴う重心位置の後退に対処する措置としては、発動機取付架を延長して、その固定部の防火壁(胴体第0番隔壁)を後退させ、なおかつ、前席(練習生席)を少し前方へ移動することによって相殺した。

二式練戦と同様、胴体後部両側には安定ヒレが追加され、主脚の車輪覆を撤去して整備・取扱いの便を図ったのも練習機ならではの措置であった。

航空母艦に搭載することはないので、主翼端の折りたたみ装置も本来は不要だったが、のちの生産期全てがそうだったのかはともかく、格納庫への収容時に占有スペースを少しでも減らすため、同装置を残していた機体もあったようである。むろん、着艦拘捉鉤をはじめとする他の艦上機用塩内は全て廃止された。


■中島製に倣った内部艤装

一七試練習用戦闘機[A6M2-K]と命名された、この複座型零戦の改造設計が進められていた当時、既に”本家”三菱における一号二型の生産は終了しており、中島飛行機による転換生産が”真っ盛り”であった。

部品の共通化を図るためにも当時のことだが、この一七試練戦が、内部艤装面において、中島製一号二型に準ずるものとなっていたことは言うまでもない。三菱製機との違いも中島製の良いタイプに倣ったことは当然だろう。

むろん、実践に用いるわけではないので、左右主翼内に装備されていた20mm機銃は撤去され、射撃訓練に必要な機首上部の7.7mm機銃も、右側の1挺のみ残し、左側銃は廃止されていた。

一七試練戦だけの専用装備品というわけではないが、その射撃訓練時に用いる「吹流し標的」を左・右主翼下面に各1本ずつ懸吊可能とし、胴体尾端部に曳航索をつなぐ金具を取り付けらっれるようにした点jも本機の特徴であった。


■制式採用、そして量産へ

改造の規模が決して小さくない一七試練戦だったが、二十一航空廠の手際よい設計により、その試作1号機は早くも11月には完成し、直ちにテストを受けた。

もともと、零戦の操縦・安定性は文句のつけようがない程優秀だったので、複座化して重量が増し、空理気的なバランスを若干変化したはずだが、練習機として全く問題がないことが報告された。

■二十一航空廠に対しては、ただちに量産準備にかかるよう命令が下され、昭和18(1943)年1月の4機を皮切りに完成し始めた。もっとも、民間の三菱や中島などの量産能力があるわけではないので、その後の月産数も5,6,7,8、8と半年にわたって一桁台が続いた。

その累積生産数が、やっと100機に届いたのは、昭和18(1943)年12月のことで、桔梗、翌昭和19(1944)年に生産が産終了するまでに、月産数が20機を越えることはなく、総計238台にとどまった。海軍からの発注数がもっとも多かったであろうことは確かだが、生産能力的には精一杯だったのだろう。


■原型の形式名を踏襲

なお、一七試練戦が兵器として制式採用されたのは、昭和19(1944)年3月のことで、不可解なほどに遅いが、これは単に書類上の手続が遅れただけのことであろう。似たような例は、境地戦闘機「雷電」や「紫電」にも見られ、戦争末期の海軍機に共通した現象と言える。

因みに、正式名称は零式練習用戦闘機[A6M2-k]である。前作の十五試練戦が二式練習用戦闘機であり、本来ならば昭和18(1943)年度末の採用であるため、三式練習用戦闘機になるはずだった。

しかし、この間に実用機改造の練戦は、元の形式名を踏襲することに基準が改定されたため、零式を冠したというわけであった。



※サイト:日本陸海軍機大百科


(2012/06/03 10:22)



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