日本陸海軍機大百科、『五式戦闘機一型』[キ100-Ⅰ](2) 2012
5/9
水曜日



日本陸海軍機大百科シリーズ第67弾は、本土防空線において、起死回生の働きを期待された新鋭機の顛末、日本陸軍の『五式戦闘機一型』[キ100-Ⅰ]を紹介します。




不調続きの液冷発動機「ハ一四〇」に改善の見込みがなく、前途を立たれた三式戦闘機二型を、空冷発動機「ハ一一二-Ⅱ」に換装して、見事に蘇生させたのが五式戦闘機であった。本機は、陸軍最後の制式戦闘機ともなり、絶大なる期待をかけられ、川崎航空機工業には全力生産が、そして1機でも多くの部隊配備が命じられた。だが、残された時間は少なく、その実質的活動期間は、昭和20(1945)年5月から8月の敗戦までの僅か三ヶ月余りだった。今回は、配備先の各隊の状況と二型の開発に触れる。


■名門二四四戦隊のその後

三式戦から五式戦に機種改変し、昭和20(1945)年5月下旬以降、九州に移動してアメリカ海軍艦載機の迎撃などに奮闘していた二四四戦隊は、沖縄陥落を受けて、7月中旬に滋賀県の八日市飛行場に後退していた。

この頃には、アメリカ軍の本土上陸に備えた戦力温存策のせいで、迎撃戦の出動も控える命令が出ていて、隊員たちの憤懣が募っていた。

そうした雰囲気を感じ取った戦隊小林昭彦大尉は、7月25日、アメリカ海軍艦載機の中部地区空襲に際して、独断により迎撃出動。有利な体制からグラマンF6F編隊を奇襲し、過半の12機を一挙に撃墜して、五式戦の強さを証明するとともに、久々に溜飲を下げた。

小林大尉は軍命令違反のかどで上層部から強く叱責されたが、天皇の御嘉賞の言葉が伝えられたことで、罪は不問に付された。しかし、この後は二四四戦隊本部に監視役の参謀が常駐して出撃は抑えられ、そのままなすすべなく敗戦を迎えた。


■九州の五式戦部隊

ニューギニア島航空戦での奮戦で知られる五十九戦隊は、昭和19(1944)年2月、生存者十数名が本土に帰還し、新たに三式戦を補充されて戦力を再建した。そして、翌20(1944)年4月からの沖縄戦に際し、特攻機の護衛などに従事したが、5月末には戦力が底をついたため、福岡県の芦屋飛行場に後退した。

これと前後して、戦力温存に従って防空線にはほとんど出撃せず、そのまま敗戦に至ってしまった。7月19日時点での五式戦保有数は48機、操縦者は55名とかなり有力なる陣容だったが、技倆甲(実践可能なレベル)のものは僅か6名に過ぎず、内容的には心細かった。


■中部地区の五式戦部隊

昭和19(1944)年9月に南方戦域から引き上げてきて、愛知県の清洲飛行場を本拠地にし、従来と同じ二式複戦「屠龍」を装備して、本土防空戦に従事したのが五戦隊であった。しかし、翌20(1944)年に入って、アメリカ海軍艦載機、同陸軍のP-51戦闘機が本土に来襲するようになると、双発の二式複戦による迎撃は、ほとんど不可能になってしまった。

そこで、五戦タも5月末に至ってようやく新鋭五式戦への機種改変に着手し、7月末には17機を保有するなった。しかし、この頃には、川崎工場がB-29の空襲により被爆、五式戦もほとんどが訓練と対艦船攻撃法の習得に追われたこと、戦力温存策に従ったことなどで、実践出撃でめぼしい実績を残せぬまま終わった。


■近畿地区の五式戦部隊

大正9(1920)年4月の創設以来、ずっと陸軍戦闘機界の”総本山”的な役割を果たしてきた昭野陸軍飛行学校(三重県)も、太平洋戦争末期の昭和19(1944)年6月20日付けをもって、昭野教導飛行師団に改変され、実践も兼ねる”軍隊”に変貌した。言うまでもなく、B-29による本土空襲が始まったことに対する処置であった。

防空任務を兼務したのは、主に第一教導飛行隊であり、昭和20(1945)年2月以降、五式戦を優先的に配備されて、近畿地区の防空任務に率先して出撃した。同飛行隊には、坂井竜少尉や、檜興平少佐など熟練の指導官がいたこともあり、6月5日の対B-29迎撃戦、7月16日の対P-51迎撃戦において、それぞれ11機撃墜を報じる久々の大戦果を上げた。

2日後の18日、来るべき本土決戦に備えるため、昭野教導飛行師団は全ての教育義務を中止し、完全な実戦部隊に改組され、そのうち、旧第一教導飛行隊の退院、機材を基幹として飛行第一一一戦隊が新編成された。保有兵力は五式戦4個中隊(合計約900機)と四式戦1個中隊で、近畿地区の陸軍戦闘機隊としては最大の勢力を誇った。

しかし、アメリカ軍の動向兵力により兵庫県・伊丹飛行場、大阪府・佐野飛行場、愛知県・小牧飛行場とめまぐるしく移動しているうちに、一ヶ月近くが過ぎ、空戦の機会を得ないまま敗戦を迎えてしまった。


■台湾の五式戦部隊

昭和19(1944)年2月に編成され、三式戦を擁して比島(フィリピン)攻防戦に参加した飛行第一七戦隊は、ここで破滅的な損害を出し、同年末に本土へ引き揚げた。そして、翌20(1944)2月に台湾へ移動し、沖縄戦に際しては特攻隊を編成して出撃、兵力の多くを失った。

同年6月に入り、新鋭五式戦への機種改変に着手。本土以外としては唯一の装備部隊(一定数以上の)となったが、川崎工場の空襲、被爆による生産停止もあって、定数を満たすまでには至らなかった。

本土決戦に備え、熊本県の健軍飛行場に移動するため、8月15日の朝、台湾の八塊飛行場を出発する直前に敗戦の大詔が告げられ、全てが終わった。この時点での五式戦保有数は僅か11機、操縦者は12名にすぎなかった。


■高々度戦闘機の開発

五式戦の思わぬ成功に意を強くした陸軍航空本部は、本機の制式採用と前後した昭和20(1945)年2月、川崎に対し、排気タービン過給器を併用して高々度性能を向上させるキ100-Ⅱの緊急開発を命じた。

これは言うまでもなく、日本陸海軍防空戦闘機隊にとって、”頭痛のタネ”でもあったアメリカ陸軍の超重爆ボーイングB-29に抗し得る機体を早急に実現したいがためであった。

中島、立川に開発を命じてあった排気タービン過給器を装備したキ87、キ94-Ⅱの両高々度戦闘機は、それが戦力化するまでに、まだ1~2年を要する状況であり、陸軍としても五式戦に頼るほか術がなかったといえた。


■量産を前にして敗戦を迎える

事の経緯からして、機体に大幅な再設計を加える時間的余裕はなく、発動機も排気タービン過給器併用のための最小限の改修を施した「ハ一一二・Ⅱル」(離昇出力はキ100-Ⅰのハ一一二・Ⅱと同じ1,500hp)とし、排気タービン過給器自体は、発動機後方の下方スペースになんとか収容した。

外観的には、カウリング形状が少し変化し、左主翼付け根前縁に空気取入口を追加、潤滑油冷却器を機体中心線よりやや右側にずらして固定したことなどが、キ100-Ⅰに比べて目立った変更箇所だった。

試作機は3機は注され、1号機は突貫作業の末、昭和20(1945)年5月に完成した。すぐさまテストされ、最高速度や上昇力はキ100-Ⅰとほぼ同等ながら、高度8,000~10,000m付近での速度は明らかに勝ることが確認された。

陸軍は、直ちに川崎に対し量産準備に入るよう命じ、五式戦闘機二型の名称で制式採用することにしたが、予定した9月の量産1号機の完成を見る前に、8月15日の敗戦を迎えて、全ての努力は徒労に帰した。





※サイト:日本陸海軍機大百科


(2012/05/09 21:50)



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