日本陸海軍機大百科、『零式艦上戦闘機六二型』 2012
3/21
水曜日



日本陸軍機大百科、第64弾は、海軍は零式艦上戦闘機六二型を紹介しましょう。

本六二型は、実質的には神風特攻隊用機となった零戦最後の量産型であった。
太平庄戦争緒戦期に、”向かうところ敵なし”とまで言われ、連合軍を震え上がらせるほどの活躍をみせた零戦も、中期以降、アメリカ軍新型軍用機が相次いで登場するにつれ、その威力に陰りが出てきた。昭和19(1944)年6月に生起した日・米最後の空母決戦と目されたマリアナ沖海戦に、旧式化した九九式艦爆の”代役”として登場した戦闘爆撃機型の零戦は、やがて神風特攻機へと変貌していった。この”爆戦”と通称された機体こそ、戦争末期の零戦のもうひとつの”顔”であり、今回のメイントピックで取り上げる六二型は、その本命、かつ最後の量産型だった。

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■零戦の爆撃機としての能力

そもそも、日本海軍の戦闘機と言えば、航空母艦で運用する環状戦闘機が唯一であり、その艦上戦闘機の主たる任務と言えば、艦隊決戦の際に来襲する敵機を迎撃して見方艦船を守ることだった。

しかし、昭和12(1937)年7月に勃発した日中戦争では、それまでの海軍航空の戦略構想では、”想定外”ともいえる陸上の飛行場を根拠地として、敵方の地上目標に対し、銃爆撃を行う任務も課せられた。

本来は、戦艦や水水上機母艦に搭載されて、敵方の水上艦船や潜水艦の動向を探るのが主任務の浮舟(フロート)付きの水上偵察機さえもが、対潜水艦攻撃用の爆弾懸吊能力を生かして、地上目標に対する爆撃任務をこなし、その存在感を大いに誇示した。


■戦闘機の爆弾懸能力

こうした中国大陸におけるさまざまな経験は、海軍航空全般にわたり、小さかならぬ変革を促すことになったのだが、そのひとつが、艦上戦闘機に対する爆撃能力の付加であった。昭和19(1944)年に試作発注された九試単戦(のちの九六式艦上戦闘機)には、爆弾懸吊能力は求められなかったが、昭和12(1937)年10月に三菱に正式な試作発注が出された一二試艦戦(のちの零戦)の計画要求書の項目には、六番(60kg)、又は三番(30kg)の懸吊能力がはっきりと記されてあった。

もちろん、爆弾懸吊はあくまでオプション装備であって、その場合は、左右主翼下面の所定位置に金具を取り付け、ここに「戦闘機用改一型」と称した専用の爆弾懸吊架を固定し、これに懸吊した。


■戦闘爆撃機構想の具体化

このオプション装備の爆弾懸吊能力は、太平洋戦争中期頃までは、艦空母艦から発艦して、艦隊や輸送船団の前路哨戒、すなわち、対潜水艦哨戒を行う時などに用いるくらいだった。

しかし、昭和18(1943)年に入ると、零戦の爆弾懸吊能力を対水上艦船攻撃に使おうという構想が芽生え、空母「★★鶴」の一部隊員による「A攻撃対」と称する戦闘爆撃隊が編成され、同年春から秋にかけて、緩降爆撃の訓練をかなり熱を入れて行った。

ただし、A攻撃隊には動燃を通して空母そのものの戦闘参加機会が訪れなかったため、実践においてその効果を示すまでには至らなかった。一方、ソロモン戦域に展開する陸上基地部隊でも、零戦の爆撃能力を生かそうとする動きがあり、ラバウル基地の二〇四空が、昭和18(1943)年12月にニューブリテン島西方のマーカス岬攻撃を行った際、「特別攻撃対」と称する爆装零戦隊を出撃させている。


■本格的「爆戦」の登場

昭和19(1944)年に入ると、戦況が一段と悪化し、対日反攻の勢いを増すアメリカ軍の次なる侵攻先が、マリアナ諸島と予測される事態となった。

マリアナ諸島は、日本陸海軍にとって、最終防衛ラインと定めた「絶対国防圏」のひとつであり、ここを失陥するということは戦争そものもも敗北に直結すると考えられていた。

そのため海軍は、ソロモン諸島攻防戦で疲弊した空母飛行機隊の再建に全力で取り組み、マリアナ諸島近海でアメリカ海軍機動部隊に対し、乾坤一擲(けんこんいってき)の一大決戦を仕掛け、戦局の挽回を図ろうとした。

この空母飛行機隊の戦力再建の一環として、軍令部からの要求を受けて新たに加えられた機種こそが、旧式化して第一線機の用をなさなくなった九九式艦上爆撃機の”代役”を果たすべくほかならぬ零戦に本格的な爆撃能力を持たせた「爆撃戦闘機」、通称”爆戦”だった。

もっとも、この爆戦は新規に生産するのではなく、この時期すでに性能的に旧式化していた零戦の初期生産型二一型[A6M2]を航空廠の担当で改造して作ることとされた。

改造のポイントは、胴体(主翼中央部)下面の落下増槽懸吊部に、「九七式中型爆弾懸吊鉤」と称する特設爆弾架を固定できるようにしたことで、ここに二五番(250kg)爆弾一発を懸吊した。懸吊部分の鉤の開閉は、ボーデン索でつないだ操縦室内のレバー操作で行った。

洋上の作戦では長距離飛行が常なので、特設爆弾架によって定位置を奪われた落下増槽は、新たに導入される陸海軍共通の統一型増槽(木製)の二型(容量200リットル)を左右主翼下面に各一個懸吊できるようにして、後続力の低下をカバーした。


■爆戦の初陣はマリアナ沖開戦

搭乗員たちの技量はともかくとして、空母9隻に搭載機合計450機という海軍航空草創以来最大の兵力を持つに至った再建艦隊、すなわち「第一機動艦隊」は、昭和19(1944)年6月19日から翌20日にかけて「あ」号作戦の名の下に、マリアナ諸島西方洋上にて、アメリカ海軍機動部隊に決戦を挑んだ。

しかし、その結果は予想もしない大惨敗で、敵艦隊にほとんど被害を与えられぬまま、味方航空機の大半がグラマンF6F艦載機群の待ち伏せにより撃墜され、わずか2日間の戦闘で、空母3隻と搭載機357機、兵員約2,800名を失い破滅してしまった。

期待された爆戦も重い爆弾を抱えて動きが鈍く、F6Fに対してなす術もなく次々に打ち落とされて、まったく戦果を上げられなかった。

このマリアナ沖開戦で事実上、戦力としての価値を失った艦隊航空隊にとっても、もはや爆戦の存在意義も薄れてしまったのだが、やがて本機は別の使途において注目される存在となった。


■神風特攻機への転身

昭和19(1944)年10月、比島(フィリピン)攻防戦が始まると、もはや正攻法でアメリカ海軍機動部隊に対し、なんらかの打撃を与えるのは困難と悟った日本海軍は、決死の体当たり自爆攻撃、すなわち神風特別攻撃を常套化するに至った。

そして、この神風特攻機の主力機として登用されたのが爆装零戦、すなわち爆戦だった。特攻用の爆戦は、改造対象を旧式の二一型に限らず、新型の五二各型にも広げ、惜しげなく施した。

爆装零戦の急激な需要の高まりを受け、海軍は三菱重工に対し、生産型としての改造設計を命じる。これが当初のA6M7の記号を付与された爆戦だった。

ベースになったのは,A6M5c五二丙型で、それまで用いていた九七式中型爆弾懸吊部に、埋め込み式に爆弾懸吊架を設置し、二五番のほか、五〇番(500kg)爆弾まで懸吊可能にした。

落下増槽については、二一型改造爆戦と同じく、左右主翼下面に統一型二型各1個を懸吊しようとしたが、懸吊法を更に改良する方法で設計を進めた。

A6M7は、発動機も水メタノール液噴射装置を併用する「栄」三一型(離昇出力は二一型と同じ1,130hpのまま)に換装することにしていたが、結局は同装置の実用化が遅れ、実質的には二一型と代わり映えのしない三一甲型に変更された。

そのため、当初に仮称六三型と命名される予定だったA6M7は、五二丙型に比較して、機体のみの改修を示す六二型となり、三菱では昭和20(1945)年2月、中島では同年5月から生産を開始した。


■実戦での効果を示さずに敗戦

本格的爆戦として、昭和20(1945)年4月の沖縄攻防戦の頃から部隊への配備が始まった六二型だが、何故か、本来の目的である神風特攻にはほとんど使用されず、横須賀空や二一〇空などの正規の常設、および特設航空隊に配備され、五二各型と併用された。

これらの部隊では、敢えて六二型を配備する必要もなく、さりとて、この時期に神風特攻以外に爆装零戦の使いみちは見当たらなかった。要するに、沖縄攻防戦の先も見えてくる中で、六二型を来るべきアメリカ軍の日本本土上陸作戦に備え、最後の抵抗戦力として温存する方針だったのかもしれない。


いずれにせよ、零戦の最終量産型になった六二型は、その登場時期からして、実践に使う機会がほとんどないまま終わってしまったというのが実情であった。

戦争末期の混乱もあって、いったい、どれほどの数の六二型が生産されたのか、正確なことはわからないが、三菱で百数十機、中島で約五百機程度と推測するのが妥当のようだ。



次回の第65号は、世界最初の対潜水艦哨戒機となった、日本陸軍の異色双発機『東海』一一型を紹介します。




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