日本陸海軍機大百科、『一〇〇式司偵三型』[キ46-Ⅲ] 2012
2/28
火曜日




日本陸軍大百科、今回のシリーズ63弾は、司偵の生命線である速度、高高度、航続性能の向上を目指した陸軍の新型一〇〇式司令部偵察機三型[キ46-Ⅲ]を紹介する。

太平洋戦争開戦に備えて隠密偵察と、緒戦期の陸軍南方侵攻作戦成功に多大なる貢献をした一〇〇式司令部偵察機は、”新司偵”の愛称で絶対的な信頼を寄せられていた。しかし、当初の計画性能をクリアした、2番目の生産型一〇〇式司偵二型[キ46-Ⅱ]と言えど、その最高速度604km/hは、昭和17(1942)年夏当時の連合軍側戦闘機に対し、必ずしも優速と言えるほどのレベルではなかった。そこで、発動機を更に出力の大きい「ハ一一二・Ⅱ」(1,500hp)に換装し、650km/h以上の最高速度を実現するための新型が開発されることになった。それが今回の一〇〇式司偵三型[キ46-Ⅲ]である。




■新司偵に更なる改良

昭和17(1942)年5月に制式採用され、同年夏頃から部隊配備が本格化した一〇〇式司偵二型[キ46-Ⅱ]は、はっきり言って不本意な低性能にとどまった一型[キ46-Ⅰ]の本来クリアすべき要求性能をようや満たしただけであった。従って、開発メーカーの三菱も性能に心底満足していたわけではない。それは、二型の制式採用とほぼ同時に三菱に対し、キ46の第二次性能向上型として、改めて[キ46-Ⅲ]の開発を命じた事実にも明確に示されていた。

陸軍がキ46-Ⅲに求めたのは、最高速度を敵側の現用戦闘機に対して、はっきりと優速を示せる650km/h以上に引き上げること、さらに航続力も1時間程度延長して、最大6時間(巡航速度にして約4,000kmに相当)くらいを確保することであった。また、性能とともに一、二型でやや難のあった離着陸の操縦安定性を改善することも要求されていた。


■発動機を「金星」系に

キ46-Ⅱが搭載した「ハ一〇二」は自社製の海軍向け「瑞星(ずいせい)」と同系の陸軍版であり、1,000hp級の空冷複列14気筒発動機としては一応の成功作ではあった。しかし、総重量が5トンを超える双発機のキ46-Ⅱの搭載発動機にしては、ややパワー不足の感は否定できなかった。

日本の軍用機メーカーとして三菱とともにその双璧と目されたライバルの中島飛行機は、この時点で自社製の発動機部門において、日本発の2,000hp級空冷複列18気筒発動機「誉(ほまれ)」(陸軍向け名称は「ハ四五」)の実用化を目前にしていた。

しかし、同発動機は海軍の指導監督によって開発されたという経緯もあって、陸軍気が優先して搭載できる状況にはなかった。

キ46-Ⅲに求められた650km/h以上の速度を実現するためには、ハ四五を用いれば確実だったのだが、それは叶わぬ願いだった。むろん、三菱とて「誉」に対抗すべき2,000hp級の空冷複列18気筒、社内名称「A20」(のちの「ハ四三」)の開発は進めていたが、その実用化には2~3年先のことであり、到底キ46-Ⅲには間に合わない。そこで、三菱技術陣が選択したのは、複列14気筒だが既に実績もあり、段階的なパワー向上の余地があった自社製「金星」シリーズの最新型、六〇型系(陸軍名称ハ一一二・Ⅱ)であった。

金星も海軍の指揮監督によって開発された発動機で、いわば三菱流複列14気筒型の最初の成功作だった。当初の生産型は、出力わずか800hp級に過ぎなかったが、過給器を含めた補器類の改良、回転数の増大などにより、四〇型系で1,000hp、五〇型系で1,300hpと性能向上し、六〇型系では、水メタノール液噴射装置の併用により1,500hpと当初に比べ実に2倍近い出力アップを果たしていた。


■発動機ナセル設計の苦心

キ46の発動機ナセルは、最優先の速度性能を要求どおり実現させるため、空気抵抗を最小限に抑えるよう特に注意して設計された。三菱は、そのためにわざわざ当時の日本における流体力学の権威と言われていた東京帝国大学(現東京大学)航空研究所の河田三冶教授に高速風洞実験を依頼して理想的な外形を決定していた。

キ46-Ⅱのナセルは、最初のキ46-Ⅰのそれに比べ、さらに空気力学的に洗練されてはいた。しかし、キ46-Ⅲが搭載予定としたハ一一二・Ⅱは、キ46-Ⅱのハ一〇二に比べ直系が100mmも大きく、それに見合った空気抵抗の少ない形に再設計しなければならなかった。

三菱技術陣は、ふたたび河田教授の協力を仰ぎ、カウリング前面開孔部に向かって強く絞り込んだ丸みの増したナセル形状を作り上げた。

発動機が変われば、それに組み合わせるプロペラも変わるのが当然である。キ46-Ⅲのプロペラは、キ46-Ⅱと同じく住友/ハミルトン計の油圧可能ピッチ式固定3翅で、直径も2.95mと同じであったが、ピッチ変更範囲が大きくなった(30~60度)関係で、ハブまわりが変更されたためスピナー形状も改められた。

因みに、のちにキ46-Ⅲが量産に入ってからは途中でプロペラブレードの形状が、先端部の幅が広い「櫂(かい)型」と通称されるタイプに変更され、それに伴いスピナー先端についていた発動機始動フックが廃止された。


■胴体外形の流線化を追求



発動機ナセルとともに、正面空気抵抗源の多くを占める胴体も、キ46-Ⅲの要改修ポイントのひとつになった。キ46-Ⅱでは操縦者席の風防と、その前方の機首に段差がついていたが、キ46-Ⅲはこれをなくし風防をそのまま機首先端まで伸ばし、機首覆と一体化することにした。

そして、この長くなった風貌の内部には、容量200リットル入りの燃料タンクを増設するととともに、胴体下面に400~600リットル入りの落下タンクも懸吊(けんちょう)可能にした。これで陸軍が要求する最大6時間以上の航続力も確保できる計算だった。

もっとも、のちにキ46-Ⅲが部隊配備されると”段無し”の風防は曲面ガラスで構成されているため、「外の景色が歪んで見える」という苦情があがり、評判はよくなかったらしい。視界をもっとも優先する機種だけに、それも当然かもしれなかった。しかし、結果としてキ46-Ⅲの風防の変更は行われなかった。


■戦争末期に制式採用

現下の太平洋戦争が、ますます拡大激化の様相を呈していたこともあるが、キ46-Ⅲの開発は火急を要し、陸軍側は試作1号機の完成を発注から僅か七ヵ月後の昭和17(1942)年12月とするよう三菱に命じていた。

しかし、三菱とてほかに各種新型機の開発をいくつか抱え、現用機の改良、量産拡大も図らねばならぬなど、能力的な限界もあった。結局、1号機は計画より4ヶ月遅れて昭和18(1943)年3月にようやく完成した。

テストでは最も注目された最高速度が要求値の650km/h以上を満たせず、高度6,000m付近にて630km/hにとどまった。この数値はその時点で陸軍飛行隊が主担当している戦域の連合軍側戦闘機、P-40やハリケーンに対しては絶対的に優速ではあた。

しかし、ニューギニア島、中国大陸奥地、ビルマ(現ミャンマー)/インド方面に遠からず配備されようとしていたアメリカ陸軍のP38-J、P47-D、P-51A/B、イギリス空軍の素ピットファイヤーMk.Ⅷ戦闘機などに比べると30~60km/hも劣速であり、いずれは苦境に立たされるのは必至だった。

とはいっても、キ46-Ⅲの630km/hは日本陸海軍機を通じて最高速記録であり、本機以外にこの速度を凌ぐ新型機が早急に実現出来る保証もなかった。

航続力6時間以上という要求値はクリアし、高度8,000~10,000m付近における最高速度もキ46-Ⅱに比べて大幅に向上していることなども加味し、陸軍はキ46-Ⅲの実用価値ありと判断、一〇〇式司令部偵察機三型の名称で制式採用した。


■司偵としての運用に変化

キ46-Ⅲは、昭和19(1944)年秋以降、キ46-Ⅱを装備する司偵部隊に順次配備されていったが、実はこの頃になると司偵そのものの運用実態に変化が生じていた。

すなわち、戦況が悪化したことに関連し、陸軍航空内に占める爆撃機兵力の度合いも相対的に低下。その爆撃作戦に供する情報収集を本務とした一〇〇式司偵の働き場も減少したのだった。

その代わりに従来は考えられなかった任務として、太平洋、インド洋方面に於ける連合軍側艦船の動向を探る、洋上哨戒索敵が重要視されるようになった。

それまで、満州国に駐留して、対ソビエト戦を想定する任務に就いていた飛行第二戦隊が、昭和19(1944)年5月以降比島(フィリピン)に移動し、主に東方海上のアメリカ海軍艦船群の哨戒索敵を専らとするようになったのがその好例であった。そして、この洋上哨戒索敵は、昭和20(1945)年春の沖縄戦の頃には、一〇〇式司偵の主任務と言える程になった。

本機が収集した敵艦船の情報がどんな作戦に寄与したかと言えばほかならぬ体当たりの自爆攻撃、すなわち特攻機突入目標の把握であった。


■二型におよばぬ生産数

運用法に変化が生じたとはいえキ46-Ⅲの存在価値の高さに代わりはなく、三菱に対しても全力量産が指示された。だが、昭和19(1944)年12月の昭和東南海大地震によって、三菱の名古屋航空機、発動機工場は大損害を受け、さらに追い打ちをかけるようにB-29の空襲もあって、キ46-Ⅲの量産はほとんど停止してしまった。

三菱は、空襲のおそれが少ない富山県下の紡績工場を借用し、キ46-Ⅲの生産を続行することにしたが、昭和20(1945)年に入ると、国内産業界はB-29の空襲によって停止状態に陥り、キ46-Ⅲは微々たる数が完成しただけで敗戦を迎えた。結局、キ46-Ⅲの生産数は611機にとどまり、キ46-Ⅱの1,093機の約60%に過ぎなかった。




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