日本陸海軍機大百科、海軍【局地戦闘機『震電』[J7W1]】 2012
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水曜日






シリーズ第61弾は、レシプロ戦闘機の極限的性能を狙った驚異の前翼型形態機、海軍の局地戦闘機『震電(しんでん)』を紹介しよう。

緒元/性能表

1903年にアメリカのライト兄弟が人類史上最初の動力飛行に成功して以来、30年以上にわたり、事実上唯一の航空機用動力として発展を遂げてきたレシプロ(ピストン)エンジンは、その原理的、さらには機構的にも出力向上の限界が予測されるようになった。そんな時勢の1930年後半、速度性能を最優先する戦闘機にとってレシプロエンジンの出力を最大限に効率よく活かせる理想的な形態として注目されたのが「エンテ型」だった。そのエンテ型を最も洗練した形に具現化したのが日本海軍流に言うところの「前翼型」を採用した局地戦闘機「震電」だった。


■レシプロエンジン機の限界

1930年第後半頃になると、欧米列強国の航空技術者たちは近い将来にレシプロエンジンの出力向上が2,000hpを超えたあたりで、理論上、さらには構造的にも限界に達するだろうと予測するようになった。

同時に、プロペラの推進効率も空気力学的に限界に達するため、いかに強力なパワーのエンジンを持ってしても、既存の一般的牽引式形態(プロペラが胴体の先端、もしくは左右主翼の前縁に位置する形態の意)のレシプロ機では速度性能を最優先した戦闘機であっても、700km/hを超えたあたりが限界だろうと考えたれた。

この時点では、まだジェットエンジンの可能性は全く未知数であったかため、レシプロエンジンに代わり得る航空機用動力はほかに考えられなかった。

ならば、どうすればよいか?
技術者たちが考えたのは一般的な牽引式形態にとらわれない新しい形態を試し、できる限り空気抵抗を少なくして限られたエンジン出力から最大限の速度性能を特徴とする手段だった。


■答えは「エンテ式」形態にあり

種々の形態を模索する中で、まず有効策と見られたのがドイツ技術者によって名づけられた「エンテ式」だった。Enteとは取りの鴨を意味する。この形態を平面図で見ると鴨が飛翔している時の姿に似ていることから名づけられた。その名の通り、一般的な牽引式形態機と逆にエンジンを胴体の後部に記し、プロペラを推進式に働かせる。そして、主翼、水平尾翼の配置も前後逆にしたものが主な特徴だった。

エンテ型形態の利点はプロペラの後ろに何もないので推進効率が高いこと。また、胴体前方に体積の大きいエンジンがなく、機首部分を思い切って細い断面に絞り込めるので、牽引式形態に比べて空気抵抗が極めて小さいこと。従って、同じ出力のエンジンを搭載しても格段に優速の戦闘機が実現できるはず、というのがその理論だった。



■イタリアとアメリカが先鞭をつける

エンテ型の利点にいち早く着目し実機の製作に着手したのはイタリアのアンプシジーニ社だった。同社は1938年にS.S.4と命名した単発戦闘機を設計し、翌年には初飛行に漕ぎつけた。また、アメリカでも1939年にカーチス社が陸軍からXP-55の試作番号を与えられたエンテ型戦闘機の開発を受注している。

一方、エンテ型の”名付け主”であるドイツが(戦闘機の)実機製作に手を染めなかったのは、第二次世界勃発の”仕掛け国”になったということもあり、空軍にそこまでの余裕がなかったためであろう。それはともかく、S.S.4、XP-55の両機の出来栄えははっきり言って、従来の牽引式形態機に比べ明らかな優位性は証明できなかった。

その原因は、ともにはじめての試みということもあって、機体外形上の空力機設計が今一つ冴えず、エンテ型の理論的優位に結びつかなったことに尽きた。とりわけXP-55は前翼の妥当な面積を最後まで把握できず、増積のための改修を繰り返した。

結局、両国ともに第二次大戦の当事国になっていたこともあり、テスト自体はS.S.4が1942年、XP-55は1944年まで継続したが、実用価値なしと判定され開発中止を宣告されてしまった。


■鶴野技術大尉の彗限

こと航空技術分野においては、その遙藍期以来、ずっと欧米先進国の後塵を拝してきた日本だったが、昭和10(1935)年大の半ばころになると、機体の軽量化の工夫などにおいて、そうした先進国と肩を並べる水準までに達していた。

その日本で、いち早くエンテ型に着目したのが、海軍航空技術廠の飛行機部設計課に所属していた鶴野正敬(つるのまさよし)技術大尉だった。空技廠は、海軍航空技術分野におけるシンクタンクであり、いわば廠員の全てがそれぞれの部門のエキスパートだった。むろん、民間メーカーをしのぐほどの機体設計能力を有しており、のちの艦上爆撃機「彗星」、陸上爆撃機「銀河」が同廠による設計であることはよく知られている。

鶴野大尉は昭和14(1939)年に東京帝国大学(現東京大学)の工学部航空学科を卒業したエリートの一人で、卒業後に造兵中尉の階級で空廠技に任官した。エンテ型を知ったのはここでの実習期間中と言われている。

自習を終えると、すぐに十五試陸上爆撃機(のちの「銀河})の開発に加わり、その強度設計を担当したという。このことから、彼の才能の程がうかがい知れる。その後、昭和16(1941)年7月から1年間は、太平洋戦争開戦を挟んで、練習航空隊に派遣されて戦闘機の操縦技術を習得し、我が国では数少ないパイロットエンジニアの草分けの一人になっている。

これをきっかけに、鶴野大尉(空廠技復帰にあたって進級したと推定)は、エンテ型戦闘機の研究にいっそうのめり込んだ。そして、日常業務のかたわら、ことあるごとにエンテ型戦闘機の優位性を上司に説明し、その開発着手を推唱するようになった。


■日本海軍版エンテ型戦闘機の開発

こうした鶴野大尉の熱意は、空技廠幹部に通じ、昭和18(1943)年3月、まずは、エンテ型形態機の空力特性を見極めるため実験機、「MXY-6」と命名したモーターライダー2機の製作許可が下りた。

MXY-6は、わずか32hpの空冷2気筒発動機を搭載した木製骨組みに合板、および羽布張り外皮という簡易な構造で、現代のホームビルド機程度のものだった。しかし、寸度、外形ともに、後の「震電」とほぼ同じであり、この時点において鶴野大尉の頭の中ではすでにエンテ型形態機の理想形は固まっていたといえる。

MXY-6は完成後に千葉県の木更津基地に搬入され、昭和19(1944)年1月6日から飛行テストを開始した。モーターグライダーが自力で離陸するのは不可能なため、九七式艦攻などをつかっての曳航により離陸、高度1,000m布巾で曳航索を外し、各種の飛行操縦を試した。



■鶴野大尉の主張

鶴野大尉もパイロットエンジニアの強みを発揮し精力的にテスト飛行をこなし、通常の索引式形態機と比べても、エンテ型形態に飛行特性上、大きな問題がないことを証明した。

この頃、現下の太平洋戦争は日本側不利に大きく傾き、全く予断を許さぬ状況になっていた。かつて太平洋上に敵なしと恐れられていた海軍の零戦も、その当時、すっかり”落ち目”になってしまい、宿敵グラマンF6Fヘルキャットに対し、もはや歯が立たなくなっていた。

現場からは一刻も早い高性能戦闘機を望む声が寄せられていたが、海軍には早急に零戦にとって代わる新型機はなかった。

そんな現状下、鶴野大尉が主張する最高速度400kt(740km/h)以上が可能というエンテ型戦闘機の構想が、一躍脚光を浴びたのも当然であった。

MXY-6の飛行特性が従来の索引式形態と比べて、とくに大きな違いもないとわかった昭和19(1944)年2月、海軍航空本部は鶴野大尉に対し、エンテ型形態戦闘機の設計を内示した。そして、数回の審査会を経て、3ヶ月後の5月にはついに正式な試作発注が出たのであった。一人の技術大尉の個人的構想が、海軍航空をあげての一大プロジェクトとして動き出した瞬間だった。


■九州飛行機による「震電」の試作

エンテ型戦闘機の試作は、むろん鶴野大尉一人で請け負えるほど簡単なものではなく、少なくとも100名以上の技術チームを必要とした。しかし、当時の空技廠は、他の諸々の作業を抱えて手一杯の状態にあり、エンテ型戦闘機の試作をこなすほどの余力はなかった。

同様に余力がない三菱、中島といった主要民間メーカーにも頼れず、中規模会社の九州飛行機に試作を請け負わせることとした。むろん、開発責任者として鶴野大尉が同社に”出向”する形をとり、会社側も選りすぐりの技術者を集め、総勢141名に達する専門チームを編成した。

因みに、このエンテ型戦闘機の正式な試作名称は、一八局地戦闘機『試製震電』[J7W1]と命名された。昭和19(1944)年5月の発注なのに、一八試というのも妙だが、すでに昭和18(1943)年度内の2月に内示されていたという理由のようだ。さらに、日本海軍は外来語のエンテ型という呼称は使わず、正式にはこの形態を「前翼(ぜんよく)型」と命名することに決めた。



■主たる迎撃目標はB-29

震電の試作発注から、およそ1ヶ月後の昭和19(1944)年6月15日深夜、中国大陸奥地の成都を発進したアメリカ陸軍の四発超重爆ボーイングB-29が、九州北部の八幡製作所を目標に爆撃を行い、遂に日本本土に対する本格的な空襲を開始した。

同機の卓越した高性能は、日本陸海軍航空首脳部に大きな衝撃を与えた。既存の戦闘機でこれをまともに迎撃できる機体は存在せず、かろうじて、夜間に中・低空で来襲した時に限り、双発夜戦の陸軍「屠竜」、海軍「月光」が上向砲/斜め銃の変則的射撃兵装を駆使して、いくばくかの戦果をあげられる程度だった。

昼間に高度10,000m前後で侵入すると、既存の陸海軍単発戦闘機では、その接敵すら容易でないところにことの深刻さが表れていた。

このような現状を踏まえた日本陸海軍がドイツ航空技術にすがり、Me163ロケット戦闘機、Me262ジェット戦闘機の国産化を決め、その一刻も早い実用化を目指して狂奔したことは承知のとおりである。

しかし、両機とも日本にとっては全く未知のロケット、ジェット動力に挑戦するわけであるから、必ず成功するとは限らず、失敗のリスクも大きい。

従って、レシプロエンジンを用いて、なおかつ既存形態機を大きく凌駕できそうな前翼型の震電にも、海軍がB-29迎撃用の切り札として絶大なる期待をかけていたことも理解できる。それは、海軍航空本部が作成した「試製震電計画要求書」(案)の冒頭に記された”敵重爆撃墜ノ撃墜ヲ主トスル優位ナル高速陸上戦闘機ヲ得ルニ在リ”という一文にも明瞭に記されている。

従って、その射撃兵装も30mm機銃4挺という従来の海軍単発戦闘機には考えられない、強力なものが求められていた。


■ガスタービンへの換装

さらに特筆すべきことは、Me262の国産化に当たり、空技廠の発動部隊も開発にかかわっていた「ガスタービン」、すなわちジェットエンジンへの換装も視野に入れて震電を設計すべし、との要求が出されていた点であった。もともと、前翼型形態は胴体後部にレシプロ発動機を配置するので、大きな設計変更なしにそのまま動力のみをガスタービンに換装するのも容易だと考えられたのだった。

九州飛行機側の、第一設計課副課長に補された清原邦武技師は、このガスタービンへの換装に関する指示にいたく興奮し、是非とも実現したいと作業に一段と熱が入ったと回想している。

将来はジェットエンジン化も視野に入れるようになったことで、震電の存在感はさらに高まったものの、当のB-29による本土空襲はますます激化して、戦争そのものの終局さえ感じられるようになった。震電に残された時間はあまりなかったのだった。



次回は、陸軍の三式戦闘機『飛燕二型改』[キ61-Ⅱ改]を紹介します。
お楽しみに。



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 【九州一八局地戦闘機『試製震電』[J7W1]】緒元/性能表

形式 単発単葉前翼型推進式/前車輪式
製造 主翼・胴体八軽合金板
ESDノ板骨式構造
乗員 1名
主翼寸法 全幅 11.114m
全長 9.760m
全高 地上制止姿勢(迎角50°) 3.920m
地上水平姿勢(迎角0°) 4.430m
主翼 翼面積 20.5㎡
翌型断面 翼弦ノ45%ニ最大厚ノアル層流翼(LB翼型)
翼弦 2.000m
縦横比 6
上反角 2.30°
後退角 (主桁) 14°30"
(前縁) 20"
取付角
前翼 翼幅 3.800m
前翼面積 2.4㎡
前翼取付角
縦横比 6
側翼 弦長 2.200m
側翼面積 1.6 x 2
縦横比 3.02
重量 自重 3.525
搭載量 正 規 1.425kg
過荷重 1.747kg
全備重量 正 規 4.950kg
過荷重 5.272kg

発動機 名称 「ハ四三」四二(MK90改)
製作会社 三菱重工業
年式 空冷星形複列18気筒推進式
(強制空冷、延長軸900mm)
基数 1
高度
(m)
出力
(HP)
回転数
(r.p.m.)
ブースト
(mm)
性能 離昇 0 2,030 2,900 500
公称 8,400 1,660 2,800 300
減速比 0.412
重量 (延長軸含む) 1,155
プロペラ 名称 住友/VDM
形式 恒速式(推進式)
翔数 6
直径 3,400m
ピット変更速度(度/秒) 4.87
重量 (変速機関関係を含む) 310kg
タンク容量 胴体タンク 400(リットル)
燃料翼内タンク 200 x 2(リットル)
増槽 200 x 2(リットル)
潤滑油 165(リットル)
メタノール 75 x 2(リットル)
降着装置 形式 三車輪式
主脚 車輪形式 翼内内側引込式(展開式制御器付き)
車輪寸度 725 x 200mm (5.0気圧)
車輪間隔 4,560
前脚 車輪形式 前方引込式
車輪寸度 550 x 150mm (4.5気圧)
荷重 翼面荷重 210kg/㎡
有効翼面荷重 207kg/㎡
馬力荷重 3.1kg/HP
運用負荷倍数 7g
重心点 重量
平均弦 胴体先
端より
基準
線下方
-12.6% 5.903m .167
-9.95% 5,956m .209
正規過荷 計測値 4.928
計測値 5.228

●性能
速度 地上最大(kt)(km/h) 320 (593)
最大 (kt(km/h)/高度m) 405 (750)/8,700
400 (740.8)/6,400
巡航 (kt(km/h)/高度m) 240 (444)/3,000
主翼 上昇率 (分・秒/高度m) 14'5"/3,000
時間 (分・秒/高度m) 10'40"/8,000
実用上限度 (m) 12,000
離陸滑走距離 (m) 522
560
着陸滑走距離 (m) 580
航空 時間(戦闘) 30分
時間(巡航) 2時間
時間 全力30分/高度8,700m+240kt
(440km/h)/3,000mにて2時間

●兵装
火器(胴体) 一七試30mm固定機銃一型乙x 4 (60発)
訓練用7.9mm固定機銃 x 2
および写真銃 x 1
爆弾(外翼下面) 60kg(六番各種) x 4,
または30kg(三番各種) x 4

●艤装
通信 三式空一号無線電話機(右翼内)
防御 操縦席全面-70mm防弾ガラス
弾倉全面-16mm鋼板
燃料油タンク -自動消火装置併用
         -22mm防弾タンク


※サイト:日本陸海軍機大百科


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