日本陸海軍機大百科、陸軍『一式双発高等練習機』[キ54] 2011
11/27
火曜日




シリーズ第五九弾は、陸軍航空史上、唯一の双発機上作業練習機として君臨した傑作機、『一式双発高等練習機』[キ54]を紹介しましょう。




軍航空草創以来、日本陸海軍の練習機といえば単発の複葉機が通り相場だったが、昭和5(1930)年前後になると、実用機の性能向上は一段と顕著になり、装備機機も複雑化してきたために、飛行しながら各種訓練項目を実習できる「機上作業練習機」と呼称し得る機体の必要性が高まってきた。これを先に実現したのは海軍であり、昭和6(19319年に九〇式機上作業練習機を制式採用して、その需要を満たした。しかし、陸軍は面子上の理由もあって、10年も遅れてようやくそれを実現した。その立役者が今回の一式双発高練であった。




■海軍が先鞭をつけた機作練(きされん)配備
時代が大正から昭和に変わった頃、陸海軍実用機の性能向上に伴い、それらを自在に使いこなせる飛行技術、さらには各種新型装備品の扱いに精通するための訓練にも、相応の機材が必要とされるようになった。
後者については、地上でのシミュレーションによってもある程度のことは可能であるが、やはり実際に飛行中の機内で訓練できることにこしたことはない。
だが、陸海軍を問わず、それまでの練習機はせいぜい3名までしか搭乗できず、機内スペースが狭く、訓練できる項目には限りがあるのが実情だった。
このような現状を打破するため、まず先に動いたのが海軍だった。昭和3(1928)年、民間メーカーの三菱が提案してきた、操縦員と教員のほかに3~4名の練習生を収容できる、広い断面積の胴体を有した、いわゆる「機上作業用練習機」構想を受け入れ、翌4(1929)年に試作発注した。
社内名称[K3M]と称した試作機は、300hpの自社製液冷V型12気筒発動機を搭載する単発機だったが、機体は全幅15.8m、全長9.7mと双発機に近い大サイズで、角張った箱形断面の胴体は幅1.1m、高さ1.6mと、練習生を最大5名まで収容できる広さを持っていた。
翌5(1930)年5月に完成した1号機をテストしてみると、発動機の信頼性が低く、飛行性能も最高速度185km/hどまりで、少々物足りなかった。しかし、機上作業練習機としての使い勝手は申し訳なく、発動機を信頼性の高い空冷星形9気筒の瓦欺電「天風」(300hp)に換装した上で、翌6(1931)年10月、「九〇式機上作業練習機」の名称で制式採用した。
その後、”試作練”の通称名で広く知られた本機は、双発副座機以上に搭乗員訓練には欠くことのできない存在となり、他者での転換精算も含め、総計630機もの多くが調達された。
当時の主力艦上機でさえ、せいぜい200~300機の生産数が普通だったことからすれば、かなりの数といえ、本機の存在感の大きさがわかる。




■海軍に倣った陸軍版機作練
九〇式機作練の登場に刺激を受けた陸軍は、昭和9(1933)年10月、同様の主旨に添った機体として、中島、三菱の両社にそれぞれキ6、キ7の試作番号を与え、競争試作を命じた。
三菱のキ7では、当然のように既に成功を収めていた九〇機機作練の機体をそのまま流用し、発動機のみを九二式400馬力空冷星形9気筒に換装し、内部艤装の一部を陸軍仕様に改めるなどの措置を施した。
従って、試作作業は極めて短期間で終わり、2ヶ月後の12月には早くも1号機が完成した。しかし、不運にも、この1号機はテスト中に不時着、大破してしまい、翌9(1934)年に入って完成した2号機を使ってテスト、および審査を続行した。
2号機は、発動機を、ライバル会社中島製の海軍向け生産型、「寿(ことぶき)」空冷星形9気筒(450hp)に換装し、若干の性能向上をみせていた。
一方、中島のキ6のほうは、未経験の機作練を、どのような機体にまとめるべきか判断がつきかね、、結局、当時同社がアメリカのフォッカー社からライセンス生産機を取得していた民間向けの単発旅客機「スーパーユニバーサル」を転用することにした。発動機は三菱キ7の2号機と同じ、自社製の「寿」空冷星形9気筒(450hp)を搭載し、全幅15.4m、全長11.25mの肩翌配置形態主翼を持つ機体サイズもほぼ同じだった。
もとが旅客機だけに、純然たる乗客だけなら6名まで収容できたが、機作練としての諸装備もあって、操縦士、教官各1名のほかに、キ7と同じ練習生4名の収容に限られた。


■九五式二型練習機の制式採用
キ6の試作1号機は、キ7のそれより3ヶ月遅れ、昭和9(1934)年3月に完成した。ただちに、キ7ー2号機との比較審査が行われた結果、翌10(1935)年12月、キ6が「九五式二型練習機」の名称で制式採用され、中島に対し生産発注がなされた。
確かに、カタログデータで見る限りは、外観の空力的洗練度で優り、飛行性能面でもキ6のほうが優れてはいたので制式採用はうなずける。しかし、肝心の機作練としての価値観という点においては、すでに実績のあった九〇式機作練を流用したキ7のほうが勝ったようだった。
その証拠に、キ6の生産はたったの20機で打ち切られてしまい、それも機作練というよりは、輸送、連絡任務などの雑用に使われ、ごく短期間のうちに”御役ご免”になった。
もちろん、陸軍と海軍の航空機乗員の訓練体系は異なっており、一般には断言出来ないのだが、キ6とキ7の競争試作を巡っては以降の似たような経緯の競争試作と同様、機体そのものの優劣よりも、陸軍の面子(海軍のお下がり品は使いたくないと判断)を優先した結果と思える。




■近代的機作練の開発
機作練の導入につまずいた陸軍は、その後数年間、旧式化とした実用機を使うなどして必要な訓練をなんとかしのいだ。しかし、昭和14(1939)年頃になると、そうした小手先の方法ではさすがに対処しきれなくなった。そこで、同年3月、この頃、陸軍練習機の専門メーカーとしての地歩を固めた感のあった立川飛行機に対し、キ54の試作番号により、近代的、かつ本格的な機作練の開発を命じた。
当時、立川工場は九五式一型[キ9]、九五式三型[キ17]練習機の量産にフル稼働しており、新たに九八式直協偵察機[キ36]を転用するキ55(のちの九九式高練)の試作も始まろうとしているなど、各社全体に高揚した雰囲気があった。
陸軍の要求は、双発単葉引込足で、むろん、構造は全金属製ということであった。既に第一線機が九七式、九八式機に更新されていたこの頃、いかに機作練といえど木金混合構造に固定脚というような旧態依然とした設計では済まされなかった。
試作受注した立川は、翌4月に、九五式一型、同三型を手がけた遠藤良吉技師の指導のもと品川信次郎技師を主務者に配して作業に着手した。


■全金属製双発引込脚形態機の設計
実は、立川にとって、全金属製双発引き込み足形態機の設計ははじめての経験であり、若干の不安はあった。だが、幸い他社設計機ではあるが、九七式輸送機[キ34]、ロ式輸送機の転換生産により、全金属製双発引込脚機の製造経験はあり、これが大いに役立った。
立川は、実用性の確かさが練習機の正否を決すると肝に銘じており、キ54の搭載発動機には信頼性の高さで定評のある日立製九八式450馬力空冷星形9気筒(ハ13甲)を選択した。
全幅17.9m、全長11.9m、主翼面積40㎡の機体サイズは双発機としては小柄なほうであったが、中央部付近が角の丸い箱形断面の胴体は、幅約1.6m、高さ約1.9mと極めて広く、内部に中心線を挟んで右側に3席、左側に2席の練習生用座席が配置できた(無線通信訓練仕様)。


■多目的ニーズに応えた設計
キ54の特徴は最初から訓練項目の多様性などに対応できる型式を用意した点で、甲型(キ54甲)は主に操縦や航法訓練用、乙型(キ54乙)は防御銃座からの射撃、爆撃、無線通信などの訓練用、乙型(キ54乙)は、胴体内部の訓練用機材の代わりに7~8個の座席を取り付けた人員輸送用とされた。この乙型は機首内部の空いたスペースを手荷物の収容室に充てている。
また、これとは別に、立川は陸軍の許可を得て、本機を民間向けの軽旅客機に転用した型を、「Y-39」の社内名称で販売することも考えていた。


■高等練習機の名称で採用
こうして、様々なニーズに対応できる態勢をとったキ54の試作1号機は、昭和15(1940)年6月に完成し、直ちに軍の審査を受けた。
その結果、飛行性能、操縦安定性、機作練としての使い勝手、実用性など申し分のない機体と判定され、直ちに立川に対して生産発注がなされた。
制式採用が決まったのは翌16(1941)年7月だが、むろん、名称は海軍が用いた”機作練(きされん)”ではなく「一式双発高等練習機」であった。これで、立川は初歩練[キ17]、中練[キ9]、高練[キ55]、双発高練[キ54]と、陸軍練習機カテゴリーの全てを独占したことになり、まさしく”陸軍練習機メーカーの盟主”と自他共に認める存在となった。
一方の海軍は、この時期に至っても尚、古色蒼然とした九〇式機作練を使い続けており、その後後継となる「白菊」が就役するのは2年後のことであった。陸軍は一式双発高練の登場により、ようやく海軍に一矢を報いることが出来たといえる。




■太平洋戦争の”特需”で大量生産
制式採用から4ヶ月後の昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争が勃発し、航空機搭乗員の大量養成が急務となるにつれ、当然のように練習機の需要も急増した。
一式双発高練っもその例に漏れず、昭和16(1941)年度には123機だった生産数が、翌17(1942)年に285機、昭和18(1942)年度には438機、昭和19(1944)年度には543機と年々増加した。結局、昭和15(1940)年度分の17機と、戦況の悪化により規模縮小した昭和20(1945)年度分の26機を合わせた合計生産数は、1,342機という、この種の双発機としては異例の多数生産となった。
これは前述したように、本機が各種訓練の用途だけではなく、輸送、連絡なども含めた、多目的ニーズに対応できる能力を持っていたことが大きい。現に、輸送機仕様の乙型は、外地に展開した航空軍、飛行師団、飛行団などの司令部付飛行班などでもかなりの数が使われており、戦争末期には、磁気探知機を搭載した対潜哨戒機型丁型[キ54丁]
が新たに作られ、津軽海峡や朝鮮海峡方面などで任務に就いた。


■実現しなかった木製版キ110
昭和18(1943)年10月、陸軍は将来のアルミ合金不足を予測して、一式双発高練の木製化を決定し、新たにキ110の試作番号を与えて立川に開発を命じた。
キ110は、主に輸送機仕様が対象となり、陸軍はキ57-Ⅱ、キ105とともに、これを輸送機兵力の3重点機種のひとつにする計画を立てていた。
設計作業は昭和19(1944)年に入ってから始まり、翌20(1945)年には試作機の製作も始まったが、同年7月、立川工場が空襲を受けて製造図面もろとも焼失してしまった。
立川技術陣は、再度設計製造図面の作図に取り掛かり、12月末に1号機を完成させる予定で作業を進めたが、日本が連合国に無条件降伏して戦争は終結。キ110は遂に未完成のままに終わってしまった。


次回は、海軍の零戦の正統なる後継機として開発された2000馬力級
艦上(局地)戦闘機『烈風』一一型を紹介します。
お楽しみに。



※サイト:日本陸海軍機大百科


(2011/12/27 22:02)



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