日本陸海軍機大百科、陸軍『九五式一型練習機』[キ9] 2011
11/27
火曜日




シリーズ58弾は、航空機乗員の中間階梯練習用に開発された、陸軍版”赤トンボ”、九五式一型練習機[キ9]を紹介しましょう。

 昭和一桁時代に入り、純国産実用機の性能向上が顕著になるにつれ、大正時代に登用した練習機の性能との格差が拡大し、陸軍航空の乗員訓練過程にも支障が生じるようになってきた。同様の問題を抱えていた海軍が、一足早くこれを解決するために実現したのが、練習機と実用機のちょうど中間くらいの性能を持つ機体、すなわち九三式中間練習
機だった。陸軍もこれに伴い、昭和10(1935)年に、同様の性能を持つ「中練」を採用した。これが九五式一型練習機であった。





■揺監期の陸軍練習機
 明治時代末期の草創以来、昭和一桁時代までの長期にわたり、陸軍航空は、主にフランスからの輸入機、さらにはそれらのライセンス生産機を中心に装備機を賄ってきた。練習機についても然りで、当初はモーリス・ファルマン社の一連の複葉機、そのあとはニューポール社、アンリオ社、サルムソン社などの各種機体を輸入、ライセンス生産して、揺籃期の航空機乗員養成に供したのだった。
 中でも異彩を放ったのは、大正8(1919)年に来日したフランス航空教官団が携えてきたモラン・ソルニエ社のMS12R2と称する滑走練習機。本機は、判りやすくいえば”飛行機の形をした自動車”であり、むろん飛行は不可能で広い草っぱらをただ走り回り、地上滑走時の操縦感覚を体得するための機体だった。
 今から思えば、思わず笑ってしまいそうな”練習機”だったが、当時としては、”空飛ぶ機械”という感覚で見ていた航空機を乗りこなすために、このような”珍機”も大まじめで必要と考えられていたのだった。
陸軍はこのMS12R2を範とした「二型滑走機」、さらには改良型の「三式滑走機」を、それぞれ15機、25機を製作して配備しており立派な実用機扱いだった。

■純国産練習機の開発
 昭和一桁時代半ば頃になると、海軍航空は、いつまでも外国に頼っていては国防の根幹が定まらないという危機感を抱き、設計、生産を通じ、全てを日本独自の力で賄う「航空自立計画」を立案し、それを実戦した。の計画を少し前倒ししたような形で、開発したのが昭和9(1934)年1月制式採用の九三式中間練習機[K5Y]であった。
 同機は、”純国産”というだけではなく、従来の練習機にはなかった”中間”というジャンルを設定し、それに基づいて設計されたという点でも、特筆すべき機体だった。れも、中間練習機とは、離着陸や水平飛行など、基本的な操縦訓練教官を修了した練習生が、次の階梯である宙返りや横転などの特殊飛行、さらには視覚に頼らず諸計器だけを頼りに飛ぶ、計器飛行などを体得するために使う機体であった。
 むろん、九三式中練が登場する以前にも、中間階梯に使う練習機はあったのだが、その多くは、第一線を引退した旧式実用機を改造したりして間に合わせていたのが実情だった。
加えて、昭和一桁時代半ば頃には、現用第一線機の性能向上が著しく練習機からいきなりそれらの機体に移行するには、性能上のギャップが大きくなってきていた。そのため、初歩練習機、あるいは旧式実用改造練習機と、現用機の性能の中間ぐらいを狙う練習機が必要ということで、九三式中練が生まれたというわけであった。





■陸軍の追従
 九三式中練の出現は、同様の認識を持っていた陸軍航空本部にも強い衝撃を与え、同機の制式採用からわずか3ヶ月後の昭和9(1934)年4月、(株)石川島飛行機製作所に対し、似たような要求に沿った練習機を[キ9]の試作番号で開発発注した。
 もっとも、[キ9]は中間練習機としてだけではなく、発動機を少し出力の低いものに換装して、初歩練習機に”変身”できることが条件になっていた点が、九三式中練とは根本的に異なっていた。石川島は、それまで一連の[R]シリーズ複葉練習機の試作を通じて培ったノウハウを全て注ぎ込み、木金混成骨組みに羽布張り外皮構造の極めてオーソドックスな複葉複座形態にまとめた。
 試作機は、1号機が出力150hpの瓦欺電(かすでん)「神風」三型発動機を搭載した初歩練仕様、2、3号機が同じ瓦欺電製の出力350hp[ハ13]を搭載する中練仕様として、それぞれ翌昭和10(1935)年3月までに完成した。





■キ9の問題点
 そして、早々、陸軍航空技術研究所、および陸軍所沢飛行学校において審査が始まった。
初歩練、中練仕様共に機体設計は同じであり、練習機として重要なポイントである操縦安定性は良好、中練仕様の2、3号機は、速度、上昇、航続力などの一般性能もまずまずの値を示した。
 しかし、石川島の設計陣が危惧したとおり初歩練仕様の1号機は発動機出力が不足したため飛行性能が芳しくなく、発動機自体も軽いので重心が後方に偏ることが問題視された。
 設計陣も、あらかじめそれはわかっていたので機首を延長して発動機位置を30cm前方にずらし、重量バランス調整用のおもりを追加して対処していた。しかし、それでも、重心位置の後方への偏りは是正できず、離陸が難しいとクレームがついてた。軍側が固執した同一設計機で初歩練と中練を兼用するという考えそのものに無理があったわけで当然の帰結といえた。


■中練としてのみ採用
 結局、[キ9]は中練としてのみ使用するということになり、昭和10(1935)年7月、試作3号機を原型とする生産型を「九五式一型練習機」の名称で制式採用した。
 生産機は、本機の就役に合わせるように開校した埼玉県の陸軍熊川飛行学校を皮切りに、以降、次々と新設された各飛行学校に配備され、文字通り陸軍練習機の象徴的存在になっていった。
また、九五式一型練は、民間の操縦養成機関である、「航空機乗員養成所」(逓信省-戦後の郵政省の前身-が所轄した)、さらには「日本学生航空連盟」などにも配備された。
 こうした需要の急拡大に伴って、九五式一型練の立川飛行機-旧石川島飛行製作所を昭和11(1936)年7月に改称-工場における生産もピッチが上がっていった。昭和15(1940)年のピーク時には生産500機に達し、4年後の昭和19(1944)年3月に生産終了するまでに合計2,618もの機体が送り出された。じ中練である海軍の九三式中練の合計5,591機に比べると約半分の数だが、それでも陸軍各種練習機を通じて最多記録であった。
 九五式一型練の生産型には甲、乙2種があり、昭和12(1937)年までの初期生産機は一型甲、昭和13(1938)年以降の生産機は、機体重量の軽減、発動機取付位置の後退、主脚柱の変更、各種艤装の簡素化などを施した一型乙になった。当然、生産数は一型乙のほうが圧倒的に多い。


■もうひとつの九五式練習機
 キ9を初歩練、中練の兼用とする構想は失敗したが、新型初歩練の必要性はなくならないので陸軍航空本部は、キ9の審査が始まったのとほぼ同時の昭和10(1935)年4月、石川島に対し、[キ17]の試作番号により開発を命じた。
 キ17に対する軍側の要求項目のうち、とくに目立ったのは初歩練としてはそれまで長く使用してきた巳式一型(アンリオHD)14型に比べ、一気に50km/hも優速の最高速度170km/hと、全備重量をキ9より500kgも軽い1,000kg以下にすること、そして、翼面荷重を35kg/㎡以下という異例に低い値に抑えることであった。
 これは、とりもなおさず、実用機の性能向上に見合った初歩練としての性能向上に加え、訓練効率を高めるための離着陸滑走距離の短縮(飛行場を離陸着陸訓練の2つのスペースに分けて同時に行うため)という、2つの大きな目的を果たすことに重点を置いた故の要求だった。
 試作受注した石川島は、キ9のときを上回る合計14名の技師で構成されたチームで作業に着手した。軍側の要求通り、わずか4ヶ月足らず後の8月までに2機の試作機を完成させた。初歩練と中練の違いがあるとはいえ、機体設計にそう大きな差はなく、構造に関しては、キ9のそれをほぼ踏襲すれば良かったのでこうした短期開発も可能だった。





■キ17の制式採用
 キ17が搭載した発動機は、キ9の初歩練仕様(1号機)と同じ、瓦欺電「ハ12」(150hp)で、機体外形もキ9にほぼ準じたものといってよい。ただし、キ17は翼面荷重低減を図るのと生産工程の簡略化という目的もあって、主翼の平面形はシンプルな矩形とし、上下翼を全幅、取付角、上反角も全て同じとした点が根本的に異なった。
直ちに審査が行われた結果、最高速度、離着陸滑走距離などの諸性能は要求をクリア。操縦安定性も良好で、大きな問題はないと判定された。
 ただ、機体が軽いので補助翼を操作するとやや効き過ぎる感があったため、生産機は上翼の補助翼を廃止し、前方視界向上のため、発動機カウリングも撤去することなどの要求が出された。してキ9の制式採用からわずか5ヶ月遅れただけの昭和10(1935)年12月、キ17は「九五式三型練習機」の名称で制式採用され、キ8に続いて各飛行学校への配備が本格化した。


■初歩練の存在価値
 キ17の使い勝手はすこぶるよく、誰にでも容易に扱えたため、初歩練としては全く申し分のない機体だった。
離陸滑走距離はわずか130m、着陸滑走距離も145mという短さであったため、ちょっとした平坦なスペースさえあれば離着陸が可能だった。故に、訓練のほかの連絡、観測任務などにも活躍し、滑空機(グライダー)の曳航機としても使われた。
 しかし、日中戦争機に新しく就役した実用機の性能向上に一段と拍車がかかり、キ17が通常の訓練時に基本とする巡航速度140km/hでは、あまりに低速すぎて用をなさず次第に本機による訓練時間は短縮されていった。太平洋戦争が始めると、初歩練そのものの階梯が省略されて、最初からキ9による飛行訓練を行うようになった。
そのため、キ17の年間生産数は、昭和13(1938)年の172機をピークに、翌年の昭和14(1939)年から昭和16(1941)年までにはわずか30機台に削減された。太平洋戦争勃発もあって、昭和17(1942)年には102機と盛り返したが、翌年の昭和18(1943)年の78機をもってついに生産打ち切りになった。立川における生産数は計660機にとまった。これはキ9の1/4
以下であった。



次回は、陸軍史上、唯一の双発機上作業練習機として君臨した『一式双発高等練習機』[キ-54]を紹介します。
お楽しみに。



※サイト:日本陸海軍機大百科


(2011/12/27 22:03)



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