日本陸海軍機大百科、陸軍『九七式司令部偵察機』[キ15-Ⅰ] 2011
11/28
月曜日




シリーズ第五七弾は、戦略偵察機の始祖となった、日本陸軍航空の快心作、『九七式司令部偵察機』を紹介しましょう。





海軍航空が、そもそも水上艦船の支援威力として草創・発展したように、陸軍航空も明治45(1912)年の草創以来、昭和10(1935)年頃まで、地上軍支援という点を第一義として発展してきた。しかし、欧米列強国の趨勢に影響されたこともあって、その頃を契機に日本陸軍航空内部にも、「空軍独立論」なる構想が芽生え始めた。

そして、この構想に沿うような新しい機種の開発も実施されるようになった。その嚆矢とも言えるのが九七式司令部偵察機であった。今日の軍事偵察衛星に脈々と受け継がれている「戦略的偵察」任務を世界に先駆けて実戦した画期的な機体でもあった。

■日本陸軍航空の新発想
海軍航空が浮舟(フロート)付きの水上偵察機を中心に発展したのと同様、陸軍航空でも、その草創から昭和一桁時代までを通し、戦力の基幹を成したのは地上軍の”眼”となって働く偵察機であった。
陸軍機としてははじめて1,000機を超える調達を記録した。大正時代後半の乙式一型(サルムソン2A2)、昭和一桁時代の最多生産機になった八式が、いずれも偵察機だったことが、その何よりの証左であろう。
「空軍独立論」なる構想が、陸軍航空内部で盛んに議論されるようになった昭和10(1935)年、陸軍航空技術研究所員だった藤田雄蔵大尉は、自らの考えを航空本部に意見具申した。
それは、陸軍航空が地上軍の指揮・命令系統に囚われず、単独の作戦をもって航空戦力を叩く行動、すなわち「航空撃滅戦」を展開するのに必要な専用の遠距離偵察機を開発すべき、という提案であった。
この遠距離偵察機は、目の前で対峙する敵軍の動向を探る従来の偵察機の任務ではなく、もっと奥深い敵領域内の重要目標を破壊するなどの、爆撃作戦に必要な情報を収集する任務を専らするという提案であった。
そのために敵の迎撃戦闘機を振り切れる高速高高度飛行能力、そしてなにより大きな航続力が求められた。

しかし、藤田大尉の提案は、多くの航空本部要員にとっては唐突すぎて理解されず、なかなか受け容れてもらえなかった。それにもめげず、熱心に提唱を続ける藤田大尉の執念に根負けしたのか、航空本部は昭和10(1935)年7月11日、三菱重工に対し「高速連絡機」という抽象的な名目で2機の試作機製作を発注した。

キ15の試作番号を与えられた本機に、航空本部が求めたスペックの大略は以下のとおり。
 1.常用高度 2,000~4,000m
 2.行動半径は標準で400kmプラス1時間の余裕
 3.最高水平速度は高度3,000m付近にて450km/h以上
 4.全備重量は2,400kg以下
 5.乗員は2名
 6.700~800hp級1基
 7.射撃兵器は後(同乗者)席に7.7m旋回機銃1挺
 8.無線機は「飛四号」を装備
 9.写真機装備は後席に「小航空写真機」1基


■一年以内の超短期開発
キ15を試作受注した三菱は、藤田大尉と同じ航技研の安藤成雄技師の指導を仰ぎつつ、河野文彦技師を主務者に、久保富夫、水野正吉両技師を補佐役に配して設計作業に取りかかった。
この頃、三菱は海軍向けに八試特・偵/九試中攻(九六式陸攻の前身)、九試単戦(九六式艦戦の前身)という、日本航空技術史上に特筆されるべき優秀な設計機を完成させていた。
陸軍もそうした状況を踏まえ、キ15に対しては両機の基礎設計をベースにする旨を計画要求書の中で示唆していた。
そのような背景もあり、キ15の試作は異例とも言える短期間で済んだ。発注からわずか10ヶ月後の昭和11(1936)年5月には1号機の完成を見た。


■速度性能を最優先した機体設計
発動機は、ライバルの中島製「ハ8」空冷星形9気筒(最大出力750hp)で、直径の大きさからくる空気抵抗上のロスを少しでも減らそうと、「タウネンド・リング」と呼ばれた独特の流線型カウリングで覆ったのが目立つ。また、当時としてはまだ珍しかったプロペラ・ハブ周りを円錐状のスピナーで覆った設計も同様の理由からだった。
胴体は、そのカウリング直径よりもかなり細い断面ににしたため相当に大きな段差が生じたが、発動機取付壁を兼ねる防火壁の前方を強く絞り込んで、カウリングのカーブにスムーズにつながるようにして気流の乱れを最小限に抑える工夫を凝らした。
風防は、本来は乗員2名なので、前後の長さはそれほど大きくなくて済むのだが、敢えて操縦席と同乗者席の間隔をあけ、尾翼のすぐ近くまで達する長大な”ファストバック”形態にした。
これは、高さを極力抑えたこととあわせ、胴体上面との段差をなくし空気抵抗のロスを抑えるためでもあった。もっとも、のちに1号機によるテストの結果、背の低い風防は視界が悪いと指摘されたため、増加試作機以降は幾分高くなった。
主翼は、左右主脚取付部分までの基準翼を前後縁ともに機体中心線に対して直角、すなわち矩形とし、外翼のみをやや強めのティーパー(先細)形にした。
これは、のちにキ30、キ51両機にも受け継がれた三菱製単発陸軍機の”定番形態”になった。
昭和10(1936)年当時の欧米では、全金属製単葉形式の新型機の多くは引きこみ式主脚を採用しつつあった。しかし、キ15は2,400km以上の大きな航続力を要求されており、そのための燃料タンクのスペースを主翼内に広く確保しなければならなかった。引きこみ式主脚にすると、その収納スペース分だけタンク容量が減り、要求をクリアできなかったためであった。
三菱技術陣は、やむを得ず固定式主脚とし、脚柱と車輪を覆うカバーをできるだけ空気抵抗の少ない形にまとめることで我慢した。これは、当時、社内テスト段階にあった海軍の九試単戦の設計主務者、堀越二郎技師(※零戦の設計主務者でもある)の判断と同じだった。結果論から言えば、この当時の単発機では固定式、引き込み式いずれの主脚であっても、速度性能面にさほど大きな違いは生じなかった。従って、余分な機構、重量がかさまない固定式のほうが整備の手間も省け、実用面において勝っていたといえる。





■高速連絡機から司令部偵察機へ
三菱技術陣が、もてる設計ノウハウをすべて注ぎ込んだキ15の試作1号は、初飛行後の社内テストに於いて、軍の要求値を大きく上回る最高速度、480km/hを出して関係者を驚喜させた。これは、技術陣が特に念を入れた機体外形の空気力学的洗練が功を奏した結果と言えた。
一方で、そのために敢えて犠牲にした操縦席から前方視界の悪さのほか、離陸滑走距離が長いこと、低速度域で大迎角姿勢のときに失速しやすいことなどの欠点も指摘された。しかし、前述したように、風防の高さを増すことでいくらか改善可能な前方視界を除けば、ほかは設計変更でもしない限り抜本的な解決法はなかった。
折しも、昭和12(1937)年2月、陸軍の新型機開発の指針である「航空兵力研究方針」が改訂され、偵察機は用途別に三分科することになった。司令部偵察機、軍偵察機、直協偵察機の3種であった。
従来の偵察機は軍偵として種別され、司偵と直協が新たに設けたカテゴリーだった。そして、この司偵こそが「空軍独立」構想に沿った戦略的偵察任務を専らとすること、とされた。
兵器研究方針では司偵の定義を「主トシテ航空作戦ニ於ケル神速ナル情報ノ蒐集及連絡ニ任シ挺身的ニ使用シ得ム」とし、さらに「特ニ水平速度絶大ニシテ高高度ニ於テモ行動シ得ル複座機トス」とも規定していた。
この頃、中国大陸では日中両軍の対立が高じ、一触即発の危機をはらんでおり、陸軍航空は司偵の一刻も早い配備を望んでいた。そのような状況下にあって、キ15の存在が、誰の目にも司偵に相応しいと映ったのは当然だった。多少の欠点は相応しいリスクとして許容できる。
昭和12(1937)年5月、陸軍航空本部は、一応暫定措置としながらもキ15を最初の司偵として登用することを決定、「九七式司令部偵察機」の名称で制式採用した。


■「神風号」の快挙
司偵としての登用がほぼ固まりつつあった昭和12(1937)年3月、三菱の工場でキ15の試作2号機が完成した。本来ならば早々に軍に納入され実用テストに供されるべきであったが、陸軍はこの2号機を民間の朝日新聞社に貸与するという異例の決断を下した。
これは朝日新聞社が去る元旦に発表していた来るべきイギリス国宝ジョージⅥ世の載冠式典(4月)に慶祝飛行の名目で自社機を日本から飛ばすという計画に賛同した結果であった。
むろん、その裏には都市間連絡飛行の世界記録を樹立して、日本の航空技術レベルの高さを世界各国に知らしめたい、という密かな野望が隠されていた。陸軍にとってもキ15の速度と大航続力をアピールし、その優秀性を誇示したい願望があり両者の思惑が一致した故の”大英断”だった。
射撃兵装を省くなど、内部換装を民間仕様に改めたキ15 2号機は「神風(かみかぜ)号」の固有名称を付与され、4月6日未明の午前2時12分に東京の立川飛行場を出発、南回りのコースをとって、4日後の10日午前零時半(日本時間)、ロンドンのクロイドン航空に到着した。
総飛行距離は15,357kmにおよび、所要時間は94時間17分56秒で、FAI(国際航空連盟)公認の世界記録を文句なしに樹立した瞬間であった。
現代と異なり地上からの後方支援などは無く、気象情報の如何も定かではない中、航空地図だけを頼りにはるばる東洋の端から飛来した単発小型機に、ヨーロッパをはじめとした世界中の人々が驚いた。
神風号の搭乗した飯沼正明操縦士と塚超賢爾機関誌は一夜にして英雄になり、大々的な歓待を受け、日本各地でも提灯行列が繰り出して沸きに沸いた。朝日新聞社と陸軍の密かな狙いは成功したのだった。





■日中戦争での活躍
神風号の快挙により、まず民間機として全世界にその存在を知らしめたキ15は、本来の九七式司令部偵察機として制式採用されて2ヶ月後の昭和12(1937)年7月、日中戦争勃発に伴い、いよいよ本領発揮の場を得た。といっても、この時点で陸軍が受領出来ていたのは試作1号機と増加試作機2機だけであり、とりあえず月末までに増加試作機2機を大陸に派遣した。
はじめて偵察任務に出勤したのは26日で北支(大陸北部)の済南飛行場の敵機の有無を確認した時であった。
8月1日、陸軍は最初の司偵運用部隊として、青木武夫大尉(偵察)を長とする「青木部隊」を臨時編成した。操縦者2名、偵察者3名、それに整備兵6名を合わせても、総勢僅か11名という小所帯だったが、彼らは連日に渡って各地の偵察行に出勤して貴重な情報の収集に努め、地上軍、飛行部隊双方の作戦遂行に大いに貢献した。
8月に入ると、朝日新聞社に納入された民間仕様の2号機「朝風号」が軍に徴庸され、さらに軍用機の生産1号機も青木部隊に配備されて、中隊規模の編成に近くなった。
翌13(1938)年3月14日、兵力を更に増強した青木部隊は、「臨時独立飛行第一中隊」となり、さらに8月1日をもって、独立飛行第十八中隊に改編、ようやく正規の飛行部隊としての体裁が整った。
九七司偵は、それまでの陸軍偵察機では到底不可能だった片道800kmを超える遠距離目標の偵察も難なくこなしたが、とりわけ、昭和12(1937)年11月頃の河北省の徳県から奥地の狭西省、西安などに対する長距離偵察が際立った。
この頃、青木部隊発足当時からの"生え抜き"の操縦者、大室孟中尉などは毎回の飛行時間が100時間を超えたことも珍しくなかったという。彼らの労苦が察せられると同時に、司偵という機種がいかに重要、かつ不可欠のものであったかということがよくわかる。


■"寅は千里を征き、千里を還る"
独立飛行隊十八中隊員は、陸軍最初の司偵部隊という誇りをもって任務に励み、実績もそれに恥じない立派なものだった。そんな彼らの心意気を形に表したのが、九七式司偵の胴体、のちには垂直尾翼に画いた虎の部隊マークであった。
これは司偵の日常任務を中国の古い諺”虎は千里を征き、千里を還る”に喩えたことに由来している。
このマークは、昭和14(1939)年春頃に部隊も含めた隊員から図案を公募し、最終的には中支・南京の野戦航空修理廠に属していた隊員のものが採用され、胴体後部側面にこじんまりしたサイズで描かれた。
小ぶりではあったが、尻尾を立て口を大きく開けて牙を剥いた極彩色(黄と黒)の虎マークは、当時、最前線の飛行部隊ではほとんど例がなく異彩を放っていた。
のちに、九七司偵二型[キ15-Ⅱ]に機種更改した際にはデザインが変更されて”天翔(あまかけ)る風になり、場所も垂直尾翼に移動して、スペース一杯に大きく描かれるようになった。
遠目にも極めて目立つこのマークのおかげで、独立飛行第十八中隊には”虎部隊”の通称名も付き、敵の中華民国空軍内にもその存在が広く知られた。彼らはこの虎マークを付けた九十七式司偵を撃墜することに執念を燃やしたと言われ、その存在の大きさを敵側もよく承知していたことが覗える。
この独立飛行第十八中隊に続き、九十七式司偵を装備する部隊も次々に編成され、大陸に展開して縦横に飛び回った。
昭和16(1941)年頃には、陸軍は司偵という新機種の運用法をほぼ確立した感があり、これはそのまま後継機一〇〇式司偵に引き継がれ、やがて太平洋戦争における活躍へと繋がっていくことになる。




 次回は、陸軍 『九五式一型練習機』[キ9]を紹介します。


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