日本陸海軍機大百科、海軍『二式水上戦闘機』 2011
11/27
日曜日




シリーズ第五六弾は、遠隔地の防空、哨戒兵力として不可欠な存在だった水上戦闘機隊、海軍の『二式水上戦闘機』を紹介しましょう。

第四三号でも『二式水上戦闘機』を紹介しているので、そちらも併せてご覧下さい。

第二次世界大戦中、水上戦闘機を実用化して、なおかつ実戦において相応しい結果を残したのは日本海軍のみである。その2機種のうち、最初に登場した二式水戦はいわば急場のしのぎの”代役”だったにもかかわらず、予想以上の実績を残した。本機の開発過程と戦略については『二式水上戦闘機』で解説を参照されたし。ここでは、二式水戦の主要な配備部隊の隊史を簡潔に紹介しよう。




■横浜海軍航空隊水戦隊
昭和11(1935)年10月1日、神奈川県横浜市の横浜水上基地を本拠地とする飛行艇隊として編成された海軍12番目の常設航空隊が横浜海軍航空隊水戦隊だった。
昭和15(1940)年2月以降、主に内南洋方面の哨戒任務などに従事していたが、太平洋戦争開戦後の昭和17(1942)年2月、ソロモン戦域に進出した。そして、4月1日付けで水戦隊(定数9機)を付属することになり、まだ制式採用前の仮称一号水戦(7月に二式水戦として制式採用)を最初に配備された。
6月3日ラバウルに進出し、翌月はじめにはツラギ島に移動したが、8月7日にアメリカ軍が同島とガダルカナル島に上陸してきたため、駐留していた守備隊と共に、地上戦闘を行った末に全滅した。
その後、本土で部隊再編成されたが、水戦隊は削除されたため、二式水戦は配備されることはなかった。

■東港海軍航空隊水戦隊/第五航空隊水戦隊/第四五二海軍航空隊水戦隊
東港空は、昭和15(1940)年11月15日、台湾の東港を本拠地とする飛行艇隊として編成された。昭和17(1942)年6月、アリューシャン列島攻略作戦に呼応してキスカ島に進出し、翌月に二式水戦6機を擁する水戦隊が付属し、同島周辺の防空などに従事した。
8月15日付けで、水戦12機を定数とする第五航空隊に、さらに11月1日付けの改変により第四五二航空隊となって、零式水偵も擁する混成部隊となった。北太平洋の悪天候に苦しめられ、実際の戦闘よりも、悪天候の理由で失う機材のほうが多かった。
昭和18(1943)年7月に、キスカを撤退して千島列島の占守(しゅむしゅ)島を本拠地にしたが、10月1日付けで水戦隊は削除された。全期間を通し、水戦隊の戦果は撃墜23機(うち不確実6機)、これに対する搭乗員の戦死10名、機材の戦闘損失は12機と記録されている。





■「神川丸」水戦隊
水上偵察機を搭載して日中戦争時に大活躍した、「特設水上機母艦」の1隻、「神川丸」にも、太平洋戦争開戦から8ヶ月後の昭和17(1942)年8月、二式水戦11機を擁する水戦隊が配備された。
そして、早速、激戦地のソロモン諸島ショートランド島に来襲したB-17 8機を、2機の二式水戦で激襲して、1機を撃墜するなど健闘した。しかし、損害も少なくなく、11月7日には一度に6機も失って、壊滅状態になった。
そのため、神川丸水戦隊は解散し、水偵隊も陸上基地主用の「R方面航空隊」として行動するようになり、神川丸の指揮下を離れた。
なお、9月4日~11月7日までの神川丸水戦隊の戦果は、撃墜15機(うち1機は不確実)と報じられ、これに対する損害は搭乗員の戦死、行方不明9名とされている。

■第一四航空隊(二代目)水戦隊/第八〇二海軍航空隊水戦隊
二代目の一四空は、昭和17(1942)年4月1日に飛行艇隊として編成され、即時マーシャル諸島、次いでソロモン諸島方面に進出した。同9月、定数12機(常用9機、補用3機)から成る水戦隊が付属することになり、翌月からショートランド島をベースに、防空、哨戒任務などに従事した。
11月1日、一四空は第八〇二航空隊と改称し、引き続き同方面で行動したが、翌18(1943)年3月には、マーシャル諸島のヤルート島に移動した。
マーシャル方面では空戦は生起せず、もっぱら周辺海域での船団擁護や哨戒任務に終始したのち、10月15日付けで水戦隊は削除され、機材、搭乗員はトラック島の九〇二空に転入した。
なお、ショートランド島駐留時期を通した戦果は、不確実8機を含め撃墜22機、これに対し、機材の損失13機、搭乗員の戦死7名と記録されている。





■第九〇二海軍航空隊水戦隊
九〇二空は、昭和17(1942)年6月20日、第二十一航空隊(水偵隊)として編成された。第四根拠地隊に属していたトラック島に配備され、周辺海域の哨戒任務に就いた。
同年11月1日、第九〇二航空隊と改称し、翌18(1943)年10月21日、旧八〇二空の水戦隊が転入してきて、防空、哨戒任務に従事した。しかし、翌19(1944)年2月17日、アメリカ海軍空母搭載機による大空襲時、水戦隊も果敢に迎撃したが、グラマンF6F相手の空戦は荷が重かった。
結局、この日の迎撃戦に出撃した8機の二式水戦は、敵戦闘機4機撃墜を報じたものの、搭乗員4名が戦死、2名が火傷、負傷し、機材も全て失い壊滅してしまった。そして、3月4日付けで水戦隊は削除され、九〇二空自体も8月1日付けで解隊された。

■九三四海軍航空隊水戦隊
九三四空は、九〇二空と同様、前身は昭和17(1942)年6月20日に、スマトラ島のバレンバンで編成された。水偵隊の第三十六航空隊だった。同年11月1日付けで第九三四空と改称し、パンダ海方面のアンボン島に移動した。
昭和18(1943)年2月28日付けで水戦隊(二式水戦8~10機)が付属され、同方面の防空、哨戒任務に従事した。
パンダ海方面の日本海海軍基地は、距離的にオーストラリアに近く、同国空軍の双発戦闘機「ボーファイター」や「バドソン」、四発重爆のB-24などがしばしば来襲し、空戦の機会が多かった。
とりわけ、昭和18(1943)年9月17日早朝に来襲したボーファイター6機を迎撃したときは、零式観測機1機と二式水戦機が共同して、そのうちの5機を撃墜する大戦果を記録した。
その反面、損害も少なくなく、とくに超低空で奇襲攻撃を仕掛けてくるボーファイターにより、離水直後に銃撃をうけて大破される機も多かった。
昭和18(1943)年3月1日付けで、九三四空水戦隊は削除され、この方面での活動にも終止符が打たれた。なお、九三四空水戦隊の戦果は、不確実7機を含めて撃墜36機と報じており、二式水戦使用部隊の中では文句なしに最高だった。
これに対する搭乗員の戦死は5名で、空戦機会が多かった割には意外に少なかった。





■内戦部隊水戦隊
二式水戦は、最前線で戦う特設航空隊(「外戦部隊」とも称される)のほか、本土内各地の常設航空隊(「内戦部隊」とも称される)のいくつかにも配備された。
とりわけ、海軍航空の”総本山”ともいうべき横須賀航空隊には多くが配属され、最初の水戦隊として横浜空に配備された1個分隊をはじめ、ほとんどの二式水戦隊が、同航空隊内で編成されている。
また、茨城県の鹿島航空隊は、海軍水上戦闘員の鍛錬を担当した部隊のひとつであり、当然、二式水戦も配備された搭乗員達はここで実戦に即した訓練をうけた後、各隊に配属された。
昭和18(1943)年4月1日、愛媛県の宿毛(すくも)航空隊内で編成された水戦隊は、翌19(1944)年1月1日付けで、水偵も併用する特設航空隊の第四五三航空隊に改編された。
しかし、その1ヶ月後の2月20日付けで水戦隊は削除されたため、長崎県の佐世保航空隊に転入している。同水偵隊は、6月下旬、小笠原諸島の防空のため父島に派遣され、7月4日のアメリカ海軍空母搭載機による空襲時に、9機が迎撃に上がった。そして、3機撃墜(うち2機は不確実)を報じたものの、4名が撃墜され戦死、機材6機を失って壊滅した。

なお、太平洋戦争が終結したとき、本土内各地に残っていた二式水戦は、わずか22機と記録されている。全生産機数254機のうち91%が失われたことになり、きわめて高い消耗率と言える。



 次回は、陸軍 『九七式司偵一型』を紹介します。


※サイト:日本陸海軍機大百科


(2011/11/27 12:04)


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