シリーズ第五四弾は、高度1万mまで3分半で駆け上がる、驚異のロケット防空戦闘機、『秋水(しゅうすい)』を紹介しましょう。
劣勢に陥った戦局を立て直そうと、日本海軍が乾坤一擲(けんこんいってき)の大作戦をもって臨んだマリアナ沖海戦も、惨憺たる敗北に終わった。そして、そのマリアナ諸島を制圧したアメリカ軍が、革新の超重爆ボーイングB-29を同諸島に集結させ、本格的な日本本土空襲を実施することが日を見るより明らかになった。この”難敵”B-29に痛撃を与えられる唯一の存在として、日本陸海軍が、異例の共同開発という形で一刻も早い実用化を目指したのが、史上前例のないロケット防空戦闘機『秋水』である。しかし、関係者たちのその超人的な努力も、報われることなく終わってしまう。
■ロケット動力の利用価値
第二次世界大戦期まで、こと航空技術という面において、世界をリードしていたのはアメリカでもロシア(ソビエト)でもなくドイツであった。
そのドイツが、第二次大戦中に世界に先駆けて実用化した2種の革新的動力航空機が、ジェット、およびロケット機でだった。
ジェットの方は今日の盛況ぶりからして、紛れもない”革新的動力”と言われたが、ロケットの方は、実用化まで昇華した機は現れず、一時の”徒花”のような存在に終わってしまい、軍用航空界への貢献度は極めて低い。
しかし、ロケット動力の利用価値は、戦後の宇宙開発やミサイル兵器などへの転用で著しく高まり、ドイツの技術者たちの彗眼は、今日、さまざまな分野に大きな貢献を果たしていると言える。
もともと、ロケット動力を兵器にに利用すると言う考えは古くからあり「火矢』と称した火薬を使用するロケット兵器は、すでに中世の時代の戦争でも盛んに用いられていた。
しかし、一瞬のうちに燃焼してしまう火薬ロケットは、航空機用動力には全く不向きで1930年代末までその利用を考える者など一人もいなかった。
■2人の”おたく”がロケット機の生みの親
ドイツには、既成の概念にとらわれない自由奔放な発想をする航空技術者が多くいたが、その1人がアレクサンダー・リッピシュ博士だった。
彼は、尾翼を持たない形態の航空機、すなわち「無尾翼機』にしか興味がなく、1920年代からずっとその研究一筋に歩んでいた”変わり者”だった。
一方、軍港都市として有名なキールの造船所に勤務していた20代の若き技術者、ヘルムート・ヴァルターは、艦船用魚雷の推進動力に利用するロケットモーターの研究に没頭していた。
ヴァルターのロケットは、燃料に火薬ではなく薬液を使うのが特徴で、過酸化水素を主成分とする薬液とメチルアルコール(メタノール)を主成分とする薬液を化学反応させて燃焼、その際に発生する高温、高圧でのガスを推進力に利用するというのが原理だった。
1937(昭和12)年、ドイツ国立航空研究所(DVL)は、このヴァルターの薬液ロケットを航空機動力に用いることを前提に、HWK-RI-203という名称を与えて、試作品の製作を発注した。
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