日本陸海軍機大百科、『零式艦上戦闘機五二乙型』[A6M5c] 2011
10/2
日曜日

 シリーズ第五二弾は、最前線から矢継ぎ早の武装強化要求に応えた、海軍の最強版零戦、五二乙型を紹介しましょう。
昭和18(1943)年秋から、南方戦線で十戦に投入された零戦五二型[A6M5]は、三菱と海軍が求めてきた、いわゆる”二号型零戦”の理想像を具現化したものだった。しかし、実際にアメリカ軍側の、防弾装備が強固な各種新型機を相手に戦ってみると、射撃兵装の不足が切実に感じられた。そのため、翌19(1944)年に入ると五二型の武装強化を主にした改修型が次々に開発、生産され、零戦は、本来の性格さえも変貌させていくことになった。五二乙型[A6M5c]は、そうした武装強化策の限界を示した、最終回答とも言えるバージョンであった。




主翼前翼から突き出た計4挺の機銃が力強さを感じさせるが、重量増加によって飛行性能は全般的に著しく低下した。
増槽は300リットルの木製であった。

■最初の武装強化型
 もともと、五二型[A6M5]の開発にあたって、機首まわり、主翼端の再設計といったメインの改修事項と共に、射撃兵装の強化も含まれていた。もっとも、強化とは言っても、機銃の性能向上、あるいは数の増加といったものではなく、主翼20mm機銃の弾倉を従来のドラム型から箱形にした上で、弾帯をベルト給弾式に変更し、携行弾数を増やす(25発程度)だけの、ささやかなものだった。
 しかし、五二型が昭和18(1943)年8月に量産に入った時点においては、カウリングの再設計も、20mm機銃(九九式二号型)のベルト給弾式化も間に合わず、当初は二二型の主翼端だけを改修したような、中途半端な内容に甘んじなければならなかった。
 昭和19(1944)年に入ってようやく、本来の五二型の内容を備えた生産機が工場から完成し始めたのだが、このベルト給弾式化を施した五二型は、新たな型式、記号を付与されることになり、五二甲型[A6M5a]と命名された。三菱工場では2月、中島工場でも翌月から本型の生産に切り替わった。三菱は6月までに計391機、中島でも五二乙型[A6M5b]と並行して一定数を生産した。

■13mm機銃の導入
 最初の生産型一号型(一一型)以来、零戦の機首上部に備えてきた九七式7.7mm機銃は、五二型でもそのまま継承されていた。しかし現実問題として、防弾装備が強固なアメリカ軍側の各種新型機に対し、もはや実効性が薄れてしまったのも事実だった。
 そのため、海軍航空本部は昭和18(1943)年秋の段階で、零戦の機首武装を、当時制式化されたばかりの「三式一三粍固定機銃」に代替することを考えた。もっとも、2挺を固定するのは、弾倉スペースの確保が難しいことなどもあって不可能であるため、取り敢えず右側の7.7mm機銃のみを換装することにした。これが、五二乙型である。
 三式13mm機銃は、よく知られるように、日中戦争当時に接収したアメリカ軍のブローニングM2 12.7mm機銃(おそらく撃墜した中華民国空軍のカーチス「ホークⅢ」複葉戦闘機の装備品)を、無断コピーして国産化したものである。ただし、口径を0.3mm拡大してあり、水上艦船の対空防御機銃として使われていた、三式13mm機銃の弾丸を共用できるようにしてあった。
 五二乙型は、昭和19(1944)年4月から三菱、中島両工場で生産に入り、三菱は10月までに計470機、中島でもおそらくそれ以上の数を生産した。
 なお、五二乙型の量産開始と時期を同じくし、海軍は零戦に二五番(250kg)爆弾1発を懸吊(けんちょう)し、戦闘爆撃機(爆・戦)として用いることを決定した。爆弾は、それまで落下増槽が懸吊されていた主翼中央部下面に懸吊することにしたので、落下増槽は、新たに左右外翼下部に懸吊具を設け、ここに容量200リットルの「統一型二型」と称した、陸海軍共用タイプを各1個懸吊できるようにした。
 この爆・戦型零戦は、主に旧型の二一型を対象に、改造によって製作されたものだが、五二乙型の生産ライン上にも途中から組み込まれ、製作された。

■武装強化要求への最終回答
 五二甲型、五二乙型の両武装強化型が、おそらくはじめて臨んだであろう、史上最大規模の”機動部隊決戦”であるマリアナ沖海戦で、日本海軍は再起不能ともいえる大敗を喫した。
  零戦も、武装強化はともかくとして、それを操る搭乗員の技量レベルが極端に低くなっていて、”宿敵”グラマンF6Fヘルキャットに対し、まったく歯が立たなかった。世に名高い”マリアナの七面鳥撃ち”であった。
 このような現実を前にしては、零戦がかつてのように大空を軽やかに乱舞し、その軽快性を”武器”に、アメリカ軍機に一矢を報いるといった類の期待は、もはや全くの夢物語に等しかった。それでなくても、F6Fに対しては、すでに性能面においても、ほとんど抗し得なくなっていた。
 そうなると、技量未熟な搭乗員でも数打ちゃ当たるの方式が優先され、零戦に対し、さらなる武装強化が求められることとなった。具体的には、五二乙型の左右主翼内20mm機銃の外側に、三式13mm機銃を各1挺ずつ追加したA6M6の開発であった。

■飛行性能の大幅な低下
 A6M6は、射撃兵装の増強に加え、ほかにもさまざまな改修が盛り込まれた。まず優先項目とされたのが、発動機の更新であった。言うまでもなく武装強化策などの処置は必然的に機体重量の増加を伴う。
 重量が増加すれば同じ発動機のままでは当然、飛行性能の低下を招く。それを防ぐには、発動機を更新してパワーアップをしなければならない。
 しかし、三二型以降、”二号型零戦”の発動機はずっと「栄」二一型のままだった。
 五二型は機体外形の空力的洗練により、三二型に比べて若干の速度性能向上を実現した。だが、武装強化により重量が少しずつ増加し、五二甲型、五二乙型になるごとに飛行性能は低下していった。グラマンF6Fに対する劣勢に一段と拍車がかかったのも当然だった。
 そこで、A6M6では発動機を水メタノール噴射装置併用の「栄」三一型(離昇出力は二一型と同じ1,130hp)に換装し、中高度以上での空中戦時に水メタノールを噴射を活用して、性能の回復を図ろうとした。
 発動機が替われば型式名も新しくなるのは当然で、A6M6には五三型という名称が付与された。ところが、「栄」三一型は、水メタノール噴射装置そのもののテスト遅延により、早急なる量産が不可能という事態に陥ってしまった。
 そこで、13mm機銃の追加に加え、操縦席まわりへの防弾装備を施したA6M6仕様の機体に、従来と同じ「栄」二一型、もしくは水メタノール噴射装置を併用しない「栄」三一甲型、もしくは搭載した乙型が生産されることになった。この機体が、五二乙型[A6M5c]である。

■本土決戦用に配備
 本型の総重量は、零戦としては”大台”に値する3,000kgを超えてしまい、当然、飛行性能は大きく低下し、もはや本来の制空戦闘機としての存在価値はほとんど消えてしまった。
 それでも、後継機不在という海軍の苦しい状況もあって、背に腹は替えられず、三菱工場では昭和19(1944)年10月から、中島も12月から本型の生産に入った。
 [A6M5c]は、昭和19(1944)年末から各零戦装備部隊への配備が始まり、翌20(1945)年3月末の沖縄攻防戦開始の頃には、本土展開部隊を中心にかなりの数が就役していた。
 しかし、もはや性能的にも制空戦闘機として相応の戦果を挙げるのは不可能に近く、沖縄戦には、数多くが特攻機となって出撃した。[A6M5c]は、栄光から悲惨へと転じた日本海軍航空隊の、その生涯最期を象徴するような型式だったと言える。

■生産機数
 [A6M5c]の三菱に於ける生産数は、わずか91機に留まったが、中島では敗戦までに1,000機近い数が作られた。


 次回は、陸軍 四式重爆撃機『飛龍(ひりゅう)』一型[キ67-Ⅰ]を紹介します。(2011/10/02 8:38)

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