日本陸海軍機大百科、特殊攻撃機『晴嵐』 2011
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日曜日

 シリーズ第五〇弾は、前代未聞の”水中空母”構想のために計画された異色の水上機『晴嵐(せいらん)』を紹介しましょう。
 それぞれの当事国が国家存亡を賭けて戦った第二次世界大戦には、”非常事態”という認識の元、単なる思いつきも含め、数え切れないほどの”奇想天外兵器”が出現した。それらの中で、発想の大胆さと計画規模の壮大さという点で、間違いなく最右翼に列せられるのが、日本海軍の「水中機動部隊」構想だろう。超大型潜水艦に航空母艦の艦上攻撃機に匹敵する機体を3機も積み込み、水中深く敵の要衝に近づいて奇襲攻撃を加えるという、世界のいずれの国にも考え及ばない唐突な計画だった。『晴嵐』の運命は如何に!


■奇想天外な構想
 太平洋戦争開戦当時、潜水艦に小型水上機を搭載し、偵察に使っていたのは日本海軍だけであったが、計画ではこれを拡大、発展させ、超大型潜水艦に2機ずつ、艦上機に匹敵するような本格的な攻撃機を搭載する。そして、アメリカ海軍艦船の重要な交通路であるパナマ運河を攻撃し、大西洋から太平洋への移動を困難にしてしまおうとう狙いがあった。(日数をかければマゼラン、ドレーク海峡迂回で太平洋に入ることは出来たが・・) ともかく奇想天外、ある意味で思いつきのバクチ的計画であった。

■超大型潜水艦の建造
 昭和17(1942)年4月、日本海軍は事前に打診した上で、艦攻本部(軍艦建造の実際を司る海軍の行政機関)に対して、以下のような概要の特殊潜水艦(潜特)を要求した。
  -基準排水量:3,500t
  -水上速力:20kt(37km/h)
  -水中速度;・7kt(12.9km/h)
  -航続力:水上速度16kt(29.6km/h)にて、33,000浬(61,120km)
  -     水中速度3kt(5.5km/h)にて、35時間
  -兵装:14cm砲 2門
        25cm3連装機銃 2基
       53cm魚雷発射管 8門
       魚雷 27本
       攻撃機 2機
       搬出機 1基
 潜特が巨大潜水艦であったこと以外に、特別な設備も併行して新規開発しなければならなかった。たとえば、大規模な航空機格納庫の完全水密化、攻撃機を射出できる大型射出機、さらにこれを揚収するための大型クレーン(3.5t)などであった。そして、巨大な艦自身の水中性能(浮上時から潜行までに要する時間、および水中速力、旋回性能、操縦性、損傷時の復元力など)の維持など、その実現には想像を超える高度な技術力を要した。

■世界に誇る”水中空母”
 日本海軍の造艦技術は、世界でも最高水準であったであろう。戦艦「大和」「武蔵」建造の技術力が潜特にも生かされた。潜特の航続力は、14ktの経済速力なら最大39,960浬(74,000km)に達し、地球上のいかなる場所へも、無補給で到達できる能力があった。従来の偵察任務を主任務とした運用法と異なり、本格的な攻撃機を搭載して積極的に敵側後方を叩くという大胆な発想であり、”水中空母”と言うべき、前例のない性格の潜水艦であった。
 特殊潜水艦は、伊号第四〇〇級と命名され、昭和17(1942)年6月のミッドウェイ海戦直後に立案された。計画では都合18隻建造されることになっており、第1番艦伊号第四〇〇は昭和18(1943)年1月、呉工廠において起工、引き続き佐世保、川崎重工でも伊号第四〇一~四〇五までが起工された。
 本艦の建造は、「大和」「武蔵」と同様、超極秘扱いとされた。

■水中空母の搭載機
 水上機に経験の深い愛知航空機に開発が命じられた。試作名称は一七試攻撃機[N6A1]であった。愛知では昭和18(1942)年6月に基礎研究着手、翌年1月~6月に試作設計、同年11月試作1号機完成という異例のスピードで開発を実現した。

■従来機の踏襲
 発動機は愛知の自社製「熱田」三二型液冷倒立V型12気筒(1,400hp)を選択した。液冷エンジンは不調・故障が多発することでも有名だが、潜水艦の格納庫内では暖機運転は出来ず、発進命令が急に出された場合は、空冷発動機ではこれが不可能だったためだ。他、設計に際しては、艦爆「彗星」、水偵「瑞雲」と同じ、もしくは踏襲し、設計時間を節約した。

■苦心の設計
 潜特の格納筒は内径3.5m、長さ30.5mであったが、本機は、全幅12.2m、全長11.6m、全高4.58m、自重3,300kgであったため、格納のための分解、組み立て法は設計陣が最も苦心したところだった。収納筒に収納するために、
  -左右主翼:付け根で前下方に90°回転させてから、後方に折りたたむ
  -水平尾翼:胴体の中心線から90cmのところで下方に折り曲げる
  -垂直尾翼:上部を右側に62°折り曲げる
 双浮舟(フロート)は、1枚の板状支柱によって主翼下面に取り付けられるが、実戦出撃の際は装着しなかった。(訓練の時だけの使用) つまり、出撃から戻った機体は母艦のそばに不時着し、乗員だけを収容する、いわば使い捨ての運用を原則にしたのだった。これはいかに奇襲攻撃を旨とするとはいえ、帰投後の機の収容に手間取ってまごまごしていれば、敵の航空機が反撃してきて、母艦もろとも撃沈されてしまう危険があったためだった。

■計画の大幅縮小
 現下の状況下で、絶対国防圏と定めた比島(フィリピンン)、マリアナ諸島までもが陥落し、アメリカ軍の次の上陸作戦の矛先は沖縄、千島列島、もしくは直接日本本土と予測されているような状況で、パナマ運河攻撃処ではなくなっていた。その結果、潜特の建造隻数は当初の18隻から5隻に激減し、計画そのものが大幅に縮小された。
 建造隻数の減少を補うために、伊号第一三級(甲型改二)の2隻、伊号第一三、一四が晴嵐を2機搭載できるように改造されたほか、潜特のほうも格納庫を少し延長し、3機搭載可能にした。

■「嵐」「光」作戦決行するも・・
 上述、伊号第一三、一四と伊号第四〇〇、四〇一の4隻をもって、昭和20(1945)年3月に第一潜水隊を編成した。当面の攻撃目標を南太平洋のアメリカ海軍根拠基地とし、計画を進めた。しかし、同年6月中旬、海軍首脳部は現下の戦況を考慮し、”水中機動部隊”の攻撃目標をウルシー環礁とした。

 「光作戦」は、敵情偵察のために、伊号一三、一四の両艦の搭載機を晴嵐から彩雲に変更し、各艦に2機ずつ収容、そしてアメリカ軍占領下のトラック島へ、7月下旬迄に到着するように隠密輸送するというものだった。7月7日に伊号第一三が、7月17日には伊号第一四が青森県の大湊を出港した。

 青嵐の搭乗員には、当初の想定と異なり、体当たり攻撃を前提とした特別攻撃「名称:神龍特悦攻撃隊」とすることが伝えられた。

 「嵐作戦」は光作戦の敵情偵察に基づき、伊号第四〇〇、伊号第四〇一に搭載する計6機の「青嵐」をもって、7月下旬~8月上旬の月明期間内の攻撃を予定した。晴嵐6機を搭載した両潜特は、7月24日午後に相次いで大湊を出港した。しかし伊号第四〇〇、四〇一の会合がうまくいかず、攻撃実施予定が遅れているうちに、8月15日の敗戦を迎えることとなり、戦局に何ら貢献することなく終わってしまった。しかし、本作戦が順調に進んだとしても、攻撃機6機でどのように変わるというのか、甚だ怪しい。馬鹿げた作戦に時間と労力と資材と資金を無駄にしたわけだ。

■生産機数
 試作、増加試作8機、生産機20機、合計28機が作られたのみに終わった。極めて高コストの機体と言える。
  
 次回は、陸軍 『九九式襲撃機/軍偵察機』[キ51]を紹介します。

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