日本陸海軍機大百科、『五式戦闘機』一型[キ100-I] 2011
9/3
土曜日

 シリーズ第四八弾は、不調の三式戦を空冷発動機への感想で蘇生させた陸軍最後の量産戦闘機を紹介しましょう。航空機にとってエンジンは、いわば人間の心臓に値する最重要パーツである。しかし、そのエンジンに何らかの欠陥が露呈して、別の型式に換装せねばならなくなったとき、設計技術者達は、新型機を開発するのに等しい困難に直面する。まして、液冷は、もしくはその逆のエンジン型式に換装せねばならぬ場合、胴体設計まで変更を余儀なくされるため、その成功の確率はずっと低くなる。こうした難題を手際よく、しかも2ヶ月程度の短期間でクリアし、成功に導いた希有な例があった。それが陸軍の五式戦闘機だった。


■三式戦『飛燕』[キ61]の誤算
 川崎航空機工業(株)主任設計技師、土井武夫の巧みな工夫により、ドイツ製の液冷発動機、タイムラーベンツDB601A 倒立V型12気筒(1,100hp)の国産化品「ハ四〇」を搭載したキ61は最高速度591km/h、高度1万mまでの上昇時間17分14秒の好成績と、優れた操縦/安定性を示し陸軍航空関係者に安堵感を与えた。これで、連合軍機に対し、明らかに優位を保てる機体が得られた、という実感であった。直ちに量産準備が下令されたキ61は、昭和18(1943)年6月に、三式戦闘機一型『飛燕』の名称で制式採用され、翌7月からニューギニア島戦域にて本格的に実戦参加を始めた。しかし、この段階になって三式戦は、ハ四〇発動機の不調、故障が頻発し、稼働率も著しく低下し始め、陸軍の期待を大きく損ねてしまう。航空機にとっては”心臓”にあたる発動機の問題だけに自体は深刻だった。

■液冷から空冷への転換
 このような実態の三式戦に、まず危機感を抱いて、信頼性の高い空冷発動機への換装を提案したのが、陸軍各種新型機の実用試験を担当する「陸軍航空審査部」の今川一策大佐だった。
 今川大佐は、ハ四〇発動機の不調、故障は近い将来も改善の見込みは薄く、早急に信頼性の高い空冷発動機に換装すべきであると、昭和18(1943)年の会議の席上で強硬に主張した。
 しかし、陸軍省、航空本部側は、川崎の発動機工場が遊休してしまうこと、液冷発動機そのものに対する研究意欲が低下してしまうこと、などを理由にこの提案を却下した。そのうえで、2ヶ月後にはこのハ四〇問題を解決すると今川大佐に回答した。
 だが、もとよりそう簡単にケリのつく話ではなく、事態はますます深刻化するばかりだった。
 陸軍省、航空本部側が明確な対応をしないまま、三式戦の空冷化がうやむやのうちに棚上げされて1年が過ぎた昭和19(1944)年8月、本機の進退はついに極まった。川崎の岐阜工場は機体だけは完成したものの、回収作業に追われるばかりで生産が滞ったハ四〇発動機を装着出来ずにいる、いわゆる”首なし機”が130機も溢れる異常な光景が現出した。
 ここに至り、空冷化を渋ってきた陸軍省、航空本部、それに前年11月1日付けで発足していた軍需省(航空機生産に関する全権を司る官庁)もようやく重い腰を上げざるを得なくなった。そして10月、航空本部は川崎に対し、三式戦の発動機を三菱製の空冷「ハ一一二-Ⅱ」に換装する改設計を命じた。ここに「キ100」の試作番号を与えられることとなった。

■空冷化に役立ったFw190
 川崎の土井武夫主任技師は改造に着手するが、ことは簡単ではなかった。なにしろ、液冷ハ四〇発動機に合わせて設計した三式戦の胴体は、左右幅がわずか84cmしかない。これに「ハ一一二-Ⅱ」の直径121.8cmと、それを覆うカウリングを”合体”させるとなると、機首にはかなり大きな段差が生じてしまう。この段差は気流の乱れを生じさせ、速度性能面でのロスはもとより、操縦/安定性にも悪影響を及ぼす。
 川崎技術陣が頭を悩ませている折、研究に供するためにドイツから1機だけ購入してあったFw190-5単発戦闘機の機首周りの設計が大いに参考となった。上述戦闘機を設計したクルト・タンク技師は、空冷「ハ一一二-Ⅱ」より7cmも大きいエンジンをスリムな幅の胴体に適合させる見事な設計方法を採っていた。まず、エンジンの上側は胴体の上面とスムーズに繋がるようにし、左右側面の段差部分には単排気管を導いて縦方向に並べ、その後方の胴体外板を凹ませて排気ガスの”通路”にした。この方法により、気流の乱れを防ぐことができた。川崎技術陣が、迷うことなくこのFw190の設計処理に倣ったことは言うまでもなかった。

■予想外の高性能、直ちに量産着手
 昭和19(1943)年2月、陸軍によるテスト飛行が開始された。最高速度は空気抵抗が増えたため580km/hと、三式戦二型戦闘機に比べて30km/h低下した。しかし、空冷策によって重量配分も変化したことにより、上昇性能、旋回性能は逆にかなり向上した。なによりも発動機問題(不調・故障)から開放されたことだった。陸軍は直ちに、キ100を『五式戦闘機一型』として制式採用を内定し、川崎へ緊急量産を下令した。
 明野教導飛行師団において、一式戦三型、三式戦二型改、四式戦の各新型機との模擬空中戦でも、五式戦は優位、劣位いずれかの戦闘開始状況でも有利に戦えることを証明した。

■各部隊の戦果
 昭和20(1945)年3月から飛行第一八、五十九、二四四戦隊など、三式装備部隊を優先して五式戦が配備されていった。特に二四四戦隊は同年6月3日、知覧飛行場に空襲をかけてきたアメリカ海軍のF4U艦戦群を30機で迎撃し、味方3機損失と引き換えに、敵機7機を撃墜の戦果を挙げた。

■生産機数
 三式戦二型”首なし機”からの改造が275機、風防を再設計して水滴状に改め、胴体後部もそれに合わせて補正した新規生産機が103機、九州の都城工場での12機、合計390機が生産された。川崎は6月22日、29日と川崎・岐阜工場はB-29の空襲を受けて施設の大半が破戒され、生産がガタ落ちとなり、また補修用予備部品の供給も滞ったことも生産機数が伸びなかった原因だった。
 
 次回は、陸軍の二式複座戦闘機『屠龍(とりゅう)』[キ45改]を紹介します。

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