日本陸海軍機大百科、夜間戦闘機『月光』一一型[J1N1] 2011
9/3
土曜日

 シリーズ第四七弾は、変転を重ねてようやく活路を見いだした、海軍初の夜間戦闘機『月光』一一型を紹介しましょう。航空機に限ったことではないが、新型兵器開発に巨額の予算を要し、一国の防衛を担うという見地からも、ユーザーであり、発注主でもある軍は、事前に入念なリサーチを行って要求仕様をまとめた上で、メーカーに開発を命じる。しかし、そうした入念なリサーチも、時代の変化や、ほかの外的要因によって”ピント外れ”となり、敢えなく”ボツ”になる例もままあった。そんな状況に置かれながら、全く別の用途に活路を見いだし、幸運にもなを残した日本海軍機が、”Gの七化け”と称された夜間戦闘機『月光』であった。


■双発機のメリット
 同じエンジンを2基搭載する双発戦闘機ならば、設計工夫を凝らせば単発機に比べて2倍の出力により速度が出る。また、スペースに余裕が出来るため燃料、武装も多く搭載でき、航続力と破壊力も大きくなる。そして、乗員が2名以上いれば航法能力も増し、爆撃機に随伴して敵地深く侵攻し、迎撃してくる敵単発戦闘機を蹴散らして、爆撃任務を滞りなく実施させることが可能である。さらに、搭載能力の大きさを生かして単独による偵察や爆撃任務もこなせ、まさに”万能機”のように使えるのではないか?こんな考えが、軍とメーカー双方の思惑としてまとまったことが、双発多座戦ブームの要因だった。日本が欧米航空先進国の風潮を敏感に汲み取り、”右に倣え”となったのだった。

■日本海軍の双発多座機
 昭和13(1943)年6月、三菱、中島両社に対して「一三試双発三座戦闘機兼爆撃機」として開発内示したが、日中戦争勃発により、要求内容は刻々と変わり、正式な試作発注は同年11月、中島1社に対してのみ出された。いつもながらの海軍の”玉虫色”の要求条件は、
 -搭乗員3名
 -最高速度519km/h以上
 -航続距離 約2,400km(正規)
 -一二試艦戦(のちの零戦)と同等の空戦性能
 -20mm機銃X1挺、7.7mm機銃×6挺
 当時の日中戦争で、九六式艦戦に代わり、九六式陸攻と行動を共にできる、護衛可能な戦闘機を求めていたため、あれもこれもと欲張った要求を盛り込むこととなった。

■苦心の設計
 主な設計ポイントは、
  -発動機中島自社製「栄」二〇型系(1,130hp)
  -全幅17m、面積40㎡の大きな主翼(翼面荷重を低くする)
  -失速防止と運動性の維持させるため、外翼の前縁にスラットを採用
   (空戦中に大きな機首上げ姿勢をとったとき、空戦フラップの作動と連動し、スラットが前方にせり出す)
  -揚力を高め失速を抑えるため、空戦フラップの採用
   (スラットと連動し、空戦中にボタン操作で20度まで下がり、作動法はヒンジを発動機ナセル後端下部に
   設置し、下げたときは斜後下方に滑り出る一種のファウラー式フラップの形)
  -胴体構造はセミ・モノコック式と併せ、空戦中の強いG不可に絶えるよう、断面の上下左右に
   超々ジュラルミン(ESD)製の強化縦通材(ロンジロン)を採用

■特注の発動機
 戦闘機の操縦性にはプロペラトルクによる偏向癖が生じる。発動機出力が大きいほど、その影響力も大きくなる。そこで右と左のプロペラの回転方向を変えるため、自社製の強みもあって、左回転(通常は右回転)にするため減速歯車室に改造を加え、左回転に変えた「栄」二二型を特別に作った。「栄」二一型を左翼にノーマルな右回転、「栄」二二型を右翼に左回転となるように装備した。互いに内側に回転させることで、トルクを相殺するというアイデアだった。

■後部射撃兵装
 海軍航空技術廠が命じ、新技術として実装させた後部射撃兵装があった。乗員室後方の胴体上部に、7.7mm機銃2挺を連装式に収めた旋回機銃塔を、軍艦の主砲塔のように前後に2基、段差を付けて固定し、これを電信員が後ろ向きで、機械式の遠隔操作機構を操って射撃出来るようにした。

■双発陸戦構想の破綻
 内示発注してから3年を経過した昭和16(1941)年5月、試作1号機が完成し、初飛行が行われた。飛行テストの結果は惨憺たるものであった。誤算のひとつは、遠隔操作式制御塔が予定重量の2倍も超過し、運動性が著しく悪化し、零戦との模擬空戦では全く勝負にならなかった。そのうえ、遠隔操作機構の精度が低くて正確な照準、射撃も出来ない有様で、兵器として失敗作と判り、導入中止が決定。そのほか、補助翼の効きの悪さ、機首上げ姿勢での異常振動など、機体設計自体にもいくつかの問題があることが判明し、海軍は一三試双発戦闘機を不採用とした。

■太平洋戦争が救い
 太平洋戦争開戦が必至の情勢になっていたことを鑑み、海軍はこれらの有効活用策として、長距離偵察機へと転用させた。太平洋戦争開戦から8ヶ月経った昭和17(1942)年7月、一三試双発機を「二式陸上偵察機」[J1N1-R]の名称で制式兵器採用となった。三座の常務室を持つ胴体内部は、大型写真機などの偵察機機を収めるスペースに事欠かない打って付けの機材と言えた。逆ピッチのせいで故障しがちな左回転の「栄」二二型をやめ、「栄」二一型を左翼、右翼ともに統一した。

■陸偵から夜戦へ再転身
 アイデアマンとしても有名な台南航空隊の小園安名(こぞのやすな)中佐は、二式陸偵の胴体後部内に、前上方、および前下方に30度の仰角をつけた20mm機銃各2挺を固定し、対大型機迎撃用の夜間戦闘機に仕上げた。”斜め銃”の誕生だった。昭和18(1943)年8月には『月光』一一型[J1N1-S]として制式兵器採用された。

■戦果
 昭和18年5月(この時点では二式陸偵改造夜戦)、ソロモン戦域に再進出した第二五一航空隊は、ラバウルの地で夜間空襲をかけてくるアメリカ陸軍のボーイングB-17四発爆撃機などに対し、二式陸偵改造の”にわか夜戦”が予想もしない大活躍を見せた。日本最初の夜間戦闘機に生まれかわったのであった。

しかし、個人的感想として夜戦を『月光』とネーミングしたのは、なんとマッチしていることだと思う。

 次回は、陸軍の『五式戦闘機』一型[キ100-Ⅰ]を紹介します。

※サイト:日本陸海軍機大百科


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