日本陸海軍機大百科、局地戦闘機『紫電』一一甲型 2011
9/3
土曜日

 シリーズ第四五弾は、”零戦の後継機に”と期待された、日本海軍最初の2,000馬力級戦闘機『紫電』を紹介しましょう。零戦が予想以上の高性能を誇ったこともあっって、日本海軍の次期新型艦上戦闘機は大幅に遅れてしまった。折しも、太平洋戦争が勃発したことで、この開発遅延はにわかに重大懸念項目と化し、海軍航空上層部に小さからぬ焦燥感を抱かせた。この間隙を上手く突いた形で、海軍の試作受注を取り付けたのが、川西の局地戦闘機「紫電」であった。すでに1号機完成が近かった、同社の一五試水上戦闘機の設計を流用して、短期間で高性能陸上戦闘機を得る、という川西の目論見だったが、その前途には果てしない"茨の道"が待ち受けていた。


■川西の転機・野望
 兵庫県の鳴尾にある川西航空機(株)は空母艦上機、水上機、飛行艇を中心に据え、特に「一三試大型飛行艇」(のちの二式飛行艇)などの名機を産み出していた。これらの市場は総合的に宿曜していくと読んだ経営陣は、陸上機開発を中心に据えていかないと、立ち行かなくなると危機感を抱き始めた。

■一号局地戦闘機として試作受注
 当時、菊原技師が設計主務者を務めた「一五試水上戦闘機」(のちの「強風」)を母体(胴体主要部、主、尾翼の設計をそのまま流用)にして、発動機の換装と離着陸装置の新規設計をすれば、比較的容易に、且つ短期間での製作が可能だろうと判断し、役員会で承認された後、菊原技師や幹部が海軍航空本部に赴いて”売り込み”を行った。昭和17(1942)年明け早々のことだった。
 本来、海軍の新型機開発は、試作発注の何年も前から入念に検討されてまとめる「実用機試製計画」なる指針に沿って行われるのが慣行であり、簡単にに提案が受け入れられるとは思っていなかった。ところが、予想に反し川西の提案はあっさりと受け入れられ、「一号局地戦闘機」[N1K1-J]の名称で直ちに試作発注が出された。本来の正規名称であれば「一六試局地戦闘機」であるはずだが、「一号~」とされたのは、正規の予算を割り当てられるものではなく、あくまで臨時措置とう扱いだったためだった。この理由は零戦の後継機(三菱の一四試局戦(のちの「雷電」))の試作が遅れ気味だったため、海軍にも焦りがあったからだった。海軍はあわよくば零戦後継機が登場するまでの”つなぎ”として使えるかもしれないという、海軍の虫のいい望もあってのことだった。

■予測と現実のギャップ
 海軍側からの試作発注の条件に、’1号機の完成は1年以内にすべし’という厳しい一項があり、陸上機設計未経験の川西にはかなり高いハードルだった。
 発動機の指定は海軍からなかったため、中島製「誉」(1,800~1,900hp)と、一四試局戦(「雷電」)と同様の、住友/VDM4翔プロペラの組み合わせとした。「誉」発動機の直径は、母体となる「一五試水戦」が搭載した三菱の「火星」一三型(1,460hp)より160mm小さい1,180mmだったため、本来なら機首まわりも細くなって然るべきだったが、一五試水戦」の「火星」に併せた胴体をそのまま流用した。

■トラブル続出となった主脚
 一五試水戦は水上機であったため主翼は中翼配置になっており、川西は1号局戦の設計に当たり、そのまま引き継ぐことにした。これが大きな”足枷”となった。すなわち、中翼配置のまま主翼に主脚を付けると、地上との間隔が大きいため必然的に脚は長くなる。この長い主脚を主翼内に収めると、収納部の切り欠きもそれだけ大きくなって強度が低下する。長い主脚はそれだけで重く、収納部切り欠き部分の強度を高めるための措置も必要になるため、’無駄な重量増加をできるだけ避ける’という海軍設計のセオリーからすれば好ましいことではなかった。川西は、日本軍用機に前例のない”伸縮式主脚”を考案して、この問題をクリアーしようとした。長い主脚は仕方ないので、これを収納する際に短く収縮出来るようにし、収納部の切り欠き部分を最小限に抑えようとしたのだった。しかし、その複雑なメカニズムのため、後に故障が多発した上、長いがゆえの折損、さらにはブレーキの不具合も重なり、実用性を著しく低下させてしまうことになった。

■冴えない外観
 母体の「一五試水戦」は導体後部下面が、尾端にかけてかなり上方に絞り込まれている。そのままの形状で尾端近くに尾脚を取り付けると、長い主脚と相俟って、地上施政がとんでもない機首上げ状態となってしまい、具合が悪い。そこで、導体尾部下を”カサ下げ”した結果、側面形は”ズン胴”形の、空気力学的洗練を欠いた冴えない形状になった。
 また低翼形態に比べ中翼形態は、胴体との接合部に付く気流成型用のフィレット(※フィレット:二つ以上の構造の結合部分を滑らかな曲線に整形した部分。気流の干渉による、抵抗の増加を防ぐ目的と、補強の目的がある)が小さくて済むはずだった。しかし模型を使った風洞実験の結果、付け根付近の気流が乱れて、大きな空気抵抗源になることがわかった。そのため、フィレットは一際大きくなり、空気抵抗によるロスを生むことになった。のちの試作機をテストした際、発動機馬力に比例しない意外な低性能は、こうした空気力学的処理のまずさも一因だった。

■一号局戦の苦難
 1号機は海軍の要求通り、発注から1年以内の昭和17年12月下旬、完成ににこぎ着けた。同年、大晦日から伊丹飛行場でテストが重ねられた。主な不具合は、
 ・2,000hp級発動機にしては振るわない性能
 ・「誉」発動機の不調、故障
 ・プロペラの過回転、ピッチ偏向装置の不良、ガタつき
 ・伸縮式主脚の強度不足からくる着陸時の折損、出し入れ機構の不具合、伸縮時のロック外れ
 ・ブレーキの不調
 こうしたことから、機体は再設計しない限り、根本的な解決法がない項目が多かった。事態の打開策として川西自身が海軍に提案し、3月に承認されて改めて試作にかかったのが「一号局地戦闘機改」(後の「紫電」二一型”紫電改”)だった。

■見切り発車の量産強行
 しかし、上述の「一号局戦改」の実用化は順調にいったとしても、一号局戦に比べて1年以上送れるのは明らかだったため、簡単に”没”にできない事情があった。それでなくとも、南方の最前線ではアメリカ軍新型軍用機に対し、零戦の劣勢が明らかになり、部隊は一刻も早い新が秋の配備を望んでいた。海軍もこうした切羽詰まった現状に鑑み、新たに「試製紫電」と命名した一号局戦の量産を決定し、8月10日付けで川西に通達した。試製紫電の最高速度は、設計値648km/hに対し583km/h止まりだった。装備は、20mm機銃4挺、最小限の防弾装備、自動空戦フラップを駆使すれば、空戦性能の相応のレベルは維持出来るという長所を頼りに量産を決定した。川西工場は同年、年末までに193機を完成させるが、海軍が実際に受領出来たのは71機にとどまり、残りの100機以上は何らかの理由で受領出来ない"不良品”で、川西工場に溢れかえる異常な光景だった。

■実戦参加の遅れ
 このような無理からぬ強行生産した実用機が、種々のトラブルを抱えながら、いい戦果を挙げることは厳しい。昭和19年、部隊編成されてはいたが、当初予定したマリアナ諸島攻防戦参加は叶わず、実戦デビューはさらに遠のいたのだった。

 次回は、海軍の『九九式艦上爆撃機一一型』を紹介します。

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