日本陸海軍機大百科、『零式水上偵察機』一一型 2011
8/24
水曜日

 シリーズ第三七弾は、日本海軍三座水上偵察機の有終を飾った傑作機『零式水上偵察機』を紹介しましょう。第二次大戦前の列強国海軍が等しく抱いていた戦略構想は「艦隊決戦」であった。日本海軍も同様だったが、軍縮条約により、米英海軍の6割の水上艦船兵力に制限されていた。その不足分を補う手段の一つとして採ったのが、航空戦力の質的向上策であった。敵艦隊の動向を探ることを主任務とする、艦船搭載の長距離水上偵察機が、その質的向上策の優先対象になったのは当然であった。零式水偵は、そうした日本海軍特有の背景を踏まえて登場した、いわば三座水偵の総決算と言ってよい機体だった。


■日本海軍は、昭和12(1937)年に川西と愛知に対し「一二試三座水上偵察機」の試作を命じた。納期内に領収され試験された川西機は、要求値に性能が達しなかった。試作1号機はフラッタ事故を起こし、試作2号機は墜落し行方不明となり、審査中止となった。一方、愛知は納期(1938.1末)に間に合わず、失格を通達されていた。しかし愛知は独自の判断で試作機を完成させていた。このような事情から海軍は急遽、愛知機を受領しテストを行った。性能は川西機を凌いで要求値を見たし、操縦/安定性、さらに実用性も申し分化なし、という判定が下った。ハインケル社の設計技術を上手く理容師、それなりに独自の技術も加味した愛知技術陣の手際の良さの勝利だったのだ。量産は、渡辺鉄工所(のちの九州飛行機)、広島県の広海軍工廠で行うこととなった。

■太平洋戦線では、
 ハワイ真珠湾攻撃では、事前偵察を行い、真珠湾にアメリカ海軍太平洋艦隊の主力が停泊中であることを知らせ、作戦成功に導いた。一方、ミッドウェー海戦では、「利根」搭載機が射出発進に遅れを生じた上、敵艦隊発見の位置報告をミスしたという二重の失態を犯した。歴戦主力空母四隻を一挙に失う大敗を喫した。その後、主力艦同士の砲撃戦によって雌雄を決する時代は過ぎ去り、水上偵察機の役割も併せて存在感が薄らいでいった。昭和18(1943)年半ば以降には働き場が無くなり、終戦まで”裏方任務”(前線基地と後方補給地との連絡、輸送船団の対潜哨戒、本土周辺海域の偵察、哨戒任務など)を粛々とこなしたのだった。

■生産機数
 九州飛行機を主に、愛知(133機)、広工廠(90機)と合わせ、総計1,423機が生産された。

 次回は、海軍の艦上偵察機『彩雲』を紹介します。

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