日本陸海軍機大百科、四式戦闘機『疾風』甲型[キ84甲] 2010
9/27
月曜日

 シリーズ第二六号は、陸軍の四式戦闘機『疾風(はやて)』<中島製>をお届けしよう。日本陸軍最初の2,000馬力級発動機を搭載する戦闘機として、その高性能に見合う実績を期待された四式戦は、中国大陸戦域に於ける初陣で連合軍機に対し確かな手応えを示した。しかし、日本の国運を左右する決戦と目された昭和19(1944)年10月からのフィリピン攻防戦では、主力機として9個戦隊もの多くが投入されたにもかかわらず、めざましい実績は残せなかった。ここでは、その比島(フィリピン)における現状と併せ、本機の不振の要因などについて概要を述べよう。

パソコンのモニターの前で撮影

■期待に応えられない四式戦
 昭和19(1944)年4月に、第一六飛行団を構成する飛行第五十一、および五十二戦隊が、翌5月には第二十一飛行団を構成する飛行第七十一、七十二、七十三戦隊が編成され、さらに7~8月には第一〇〇飛行団を構成する第一〇一、一〇二、一〇三戦隊が編成された。10月20日、アメリカ軍のレイテ島上陸を機に比島攻防戦が佳境に入ると、日本陸軍は第十二飛行団を構成する飛行第一、十一戦隊をそれまでの一式戦から四式戦に機種改変した。さらには中国大陸戦線から呼び戻した二十二戦隊を、10月下旬に相次いで比島に派遣した。また、明野飛行学校にて10月12日に特別編成した飛行第二〇〇戦隊(6個中隊編成、約70機)も、同時期に進出されている。しかしながら、大きな期待を込めて派遣した四式戦隊だが、アメリカ軍側の圧倒的航空兵力の前に次々と消耗していった。各戦隊の操縦者の大半が実践未経験の新米であり、戦力として甚だ心許なかった。

■戦争末期の悪条件下での苦戦
 比島決戦において四式戦が予想外に振るわなかったのは、アメリカ軍との圧倒的兵力格差と操縦者の技量未熟、戦術上の誤りなど外的な要因も大きく影響した。しかし、原因はそれだけではなく、四式戦が搭載した中島「ハ四五」(海軍名称「誉」)発動機と「ペ三二」と称したフランスの「ラチエ」系を国産化したプロれらに藻問題があった。それらは故障や不調を頻発しか同率が低く、さらに性能も振るわなかった。「ハ四五」は、本来はオクタン価100の高品質ガソリンを使用することを前提に、必要以上のコンパクト化を目指して精緻な設計を採った発動機だった。しかし、現実には太平洋戦争下の厳しい運用環境の下、87~91オクタン価のガソリンで凌がねばならなかった。このこと自体が目算はずれであり、故障や不調の多発も起こるべくして起こったと言えた。試作、増加試作機なども含めた総生産数は、約3,400機であった。

■アメリカ軍が驚嘆した最優秀戦闘機
 戦後、四式戦を接収したアメリカ軍は、140オクタン価燃料、良質のオイル、点火プラグなどを用いて性能テストを行った結果は、最高速度は689km/hを出し、日本側データを大きく上回る性能を示してアメリカ側を驚嘆させたと言われている。第二次世界大戦における日本の最優秀戦闘機という評価をアメリカが与えたのだった。
 
次回は『九九式艦上爆撃機一一型』をお楽しみに。(2010/09/27 22:35)

※公式サイト:日本陸海軍機大百科


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