日本陸海軍機大百科、『零式観測機一一型』[F1M2] 2010
5/11
火曜日

 シリーズ第一七弾は、主力艦の砲撃戦時の弾着観測任務に特価した異色の複葉水上機『零式観測機一一型』。第二次世界大戦以前、世界の列強国は、戦争の勝敗は大口径の主砲を備えた主力艦(戦艦)の砲撃戦によって決すると考えていた。日本も同様の考えを持っており、この砲撃戦を優勢に導くために海軍が特に心血を注いで充実を図ったのが、艦載用の水上偵察機であった。水上偵察機は敵艦隊の発見や追跡などに欠かせない存在であるうえ、遠距離からの砲撃戦時に味方艦の弾着を確認して照準修正させるのも重要な任務だった。この弾着観測任務を最優先にして開発された世界にも類のない水上偵察機だった。

 ”艦隊決戦”が幅を利かせていた時代、砲撃戦の際に、主砲弾の命中率の高低が勝敗の行方を左右すると言ってもよかった。むろん当時のことなのでレーダー照準などまだ”夢物語”だったため、光学照準システムとそれらを扱う兵士達の技量が頼りだった。しかし戦艦同士の砲撃戦ともなれば、主砲の長大な射程から通常は何十キロも離れた遠距離から互いの姿を見ずに撃ち合うと想定されていた。そのため光学照準器を用いる距離を測る測定儀は役に立たない。そこで命中率向上のもうひとつの手段が、戦艦自身が搭載する浮舟(フロート)付きの水上偵察機による「弾着観測(着弾観測ともいう)」である。これは、水偵を敵艦隊付近の上空に飛ばし弾着の様子を逐一無線で報告させ、誤差を修正して命中弾を得るという発想であった。

 昭和10(1935)年3月、「十試水上観測機」の名称により三菱、愛知、川西の3社に競争試作を命じ、最終的には三菱が長い試行錯誤を経て、昭和15(1940)年12月、「零式一号観測機一型」(のちに零式観測機十一型と改称)の名称により制式兵器採用にこぎ着けた。

■実用までの苦難
 初飛行の社内テストで三菱は思わぬ欠陥が明らかになった。
(1)垂直尾翼が小さいことに起因する方向安定不足
(2)水上滑走時の横安定不足
(3)空中戦の際に頻繁に行う垂直旋回や宙返りの際、機体が勝手に自転(オートローテーション)を発生する悪癖
これらを試行錯誤し、改善に4年半もの長期を要した。

■本来の用途では活躍の場なし
 太平洋戦争は開戦時に日本海軍自らがハワイ作戦で”手本”を示した航空戦力中心の戦術へ推移してしまった。このため主力艦同士の砲撃戦で雌雄を決するという戦略構想自体が、過去のものとなってしまった。かくして、主力艦の砲撃戦において真価を発揮することを目的に開発された零観は、主たる活躍の場を失うことになった。だが本機の特性は従来までの二座水偵の任務をこなすのに何ら不都合はなく、海軍も量産(合計約1,000機)させた。

パソコンのモニターの前で撮影

三菱『零式観測機一一型』[F1M2]

■艦載、陸上基地双方の部隊で活躍
 水上母艦に搭載された零観は、開戦時の比島攻略作戦を初めとして欄印や西部ニューギニア島に至る一連の南方侵攻作戦に参加した。そして上陸部隊を輸送する船団の援護(対空、対潜哨戒)や索敵、偵察、上陸地点周辺の防空任務などを通じて、敵航空機11機撃墜、26機撃破の戦果を上げた。

 昭和17(1942)年8月には、アメリカ軍のガダルカナル島上陸によってにわかに戦況逼迫したソロモン戦域に、各水上母艦搭載の水偵を集結させ、一括した運用を図った。同年秋頃を境に、R方面航空部隊の零観も哨戒、索敵など本来の二座水偵が日常としていた任務に専念するようになった。

 昭和18(1943)年に入ると、最前線で水上機が昼間行動をできる余地はほとんどなくなった。同年10月には特設水上機母艦そのものの廃止が決まったことで、零観を含めた水偵の任務も戦線後方の哨戒や連絡、対潜警戒などが専らとなった。

 昭和19(1944)年以降、水偵隊の活躍は海上護衛総隊隷下部隊のみに集約され、南方戦域と日本本土を結ぶシーレーン沿いの各陸上基地からそれぞれの担当区の対潜哨戒を主任務とした。もっとも、この任務には航続力の大きい零式(三座)が重用され、零観の数は少なかった。

 結果的に見れば零観は本来の使用目的に一度も巡り会えず、二座水偵の用途に終始してしまったが、それを理由に開発が無駄であったと決めつけるのは早計であろう、と結んでいる。

 次回は二式複座戦闘機『屠龍(とりゅう)丙型』をお楽しみに。(2010/05/11 22:41)

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