日本陸海軍機大百科、『九七式艦攻一二型』[B5N2] 2010
5/10
月曜日

 シリーズ第一六弾は、艦上攻撃機『九七式艦攻一二型』だ。太平洋戦争劈頭のハワイ・真珠湾攻撃において、未曾有の大戦果をあげ脚光を浴びた。しかし、すでにこの時点で試作機の初飛行から5年が経過していた本機は、現実問題として設計および性能的に旧式化しつつあった。だが後続機「天山(てんざん)」の就役が遅れたために、九七式艦攻は老骨に鞭を打って昭和18(1943)年まで第一線にとどまって奮闘せざるを得なかった。

■損耗率が上昇した理由とは?
 ラバウル攻略戦やオーストラリア空襲、インド洋作戦、ミッドウェー島攻撃などにおける空母部隊の九七指揮艦攻は陸上目標に対する水平爆撃に大きな威力を示した。しかし”主敵”たるアメリカ海軍空母部隊を相手に戦った昭和17(1942)年5月8日の珊瑚海海戦や、同年8月24日の第二次ソロモン海戦、同年10月26日の南太平洋海戦では、微々たる戦果とは引き換えに予想以上に損害を強いられた。

 その要因は、まず第一にアメリカ側の対空防御システムの著しい改善を挙げるべきだろう。早期警戒レーダーで日本機の接近をいち早くキャッチし、艦戦隊を要所に待機させたうえ、これをなんとかくぐり抜けた幸運な日本機をも、レーダー照準のVT信管内蔵高角砲で打ち落とされてしまった。

 第二に九七式艦攻一二型(旧称三号型)の飛行性能が相対的に旧式化したうえに、もともと防弾対策が皆無という弱点を抱えていたことによって損耗率が一気に高まってしまった。

 わずか1,000hpの発動機に対し、全幅15mを越える大柄な機体と乗員3名を収容する九七式艦攻は、総重量3.8トンにも達する。これに加え800kgの魚雷を懸吊した状態では、飛行速度はせいぜい300km/h程度であろう。最高速度500km/hを越えるグラマンF4F艦戦に捕捉されればひとたまりもなく撃墜されるのは言うまでもなかった。

パソコンのモニターの前で撮影

中島式『九七式艦上攻撃機一二型』[B5N2]

■光景の攻撃機、未だに登場せず
 本来ならば早急に後継機に代替わりして然るべきだったが、同じ中島飛行機が手がけた一四試艦上攻撃機[B5N](のちの「天山」)は、この時点でまだ実用試験の段階であった。このため実施部隊に充足するまでにはなお相当の日数を要するとみられ、九七式艦攻を使い続けるしかなかった。昭和18(1943)年4月上旬の「い」号作戦、11月上旬の「ろ」号でも、艦攻には荷が重くなっていたことは自明の理であった。

■最後の役目は対潜哨戒
 日本が太平洋戦争開戦に踏み切った理由は、軍事力の根幹を成す燃料の石油、および各種兵器の製造に不可欠な軽合金、鋼鉄、ゴムなどの原材料となる戦略資源を確保するためであった。したがって、緒戦の侵攻作戦によって奪取した南方資源地帯から日本本土までの供給ルートはまさに生命線であった。ところが昭和18(1943)年後半以降、日本本土に石油や戦略物資を運ぶ輸送船がアメリカ海軍潜水艦や航空機に襲われて撃沈される例が急増した。すでに第一線機としては事実上使えなくなった九七式艦攻はこの哨戒任務に従事した。

■機上搭載用レーダーを装備
 昭和19(1944)年中場頃には一部の機体に機上電波探信儀(略称「電・探」=レーダー)が追加装備された。送受信機を含めた重量は110kgにも達していた。

 次回は『零式観測機一一型』をお楽しみに。(2010/05/10 20:51)

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